東日本大震災で、福島県双葉町・大熊町にある福島第一原発(通称1F)にある3つの原子炉がメルトダウンする最悪の事故から14年が経った。
事故直後、1Fから30キロ圏内に住む人の多くは避難を強いられた。その中には小学6年生の時に「原子力 明るい未来の エネルギー」という双葉町の原発PR看板の標語を考案した大沼勇治さん(49)もいた。
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「原子力 明るい未来の エネルギー」を震災前までは誇りに思っていた
双葉町に原発の建設計画がもちあがったのは高度経済成長まっただ中の1960年。67年に建設が始まり、反対運動はあったものの原発ができたことで町の財政規模は3倍になった。町の雰囲気は原発の容認と増設要望に傾き、大沼さんも原発に疑問を持ったことはなかった。
町が原発PRの標語を公募したのは1987年、大沼さんは小学6年生だった。大沼さんの作品が「原子力 明るい未来の エネルギー」だ。
「標語を作るのは最初は学校の宿題で、ノルマをこなして早く遊ぼうぐらいの軽い感覚でした。原発のお題を見た時は、双葉町にもいわき市や仙台市のように大きな建物が出来たり、原発で都会になったら良いなと思いました。新幹線が双葉町を走ったり、家の周りが商店街になって賑わってほしいという夢を『明るい未来』という言葉に込めました」
その作品は優秀賞となり、91年に看板になることになった。
「標語が選ばれたのは嬉しかったです。原発事故前は誇りに思っていました。それが私自身、大人になるベースにあったものです。原発PR看板がある場所一帯が私の原風景ですし、大人になってからも地元で不動産業を営み、アパートも建てました。そうやって原発の傍で暮らしていたんです」
看板は町の広報にも掲載され、大沼さんは自分が作った標語の看板の存在が自慢だった。
「双葉町の広報には標語と考案者が紹介されたので、同級生の家に遊びに行くと、その家のおばあちゃんに『広報にのってたね』と褒められたり、授業参観日に担任の先生が親の前で誉めてくれた事は覚えています。町長からも直接表彰されて誇らしい気持ちでした」