小学生の時に「原子力 明るい未来の エネルギー」という福島第一原発の標語を考案した大沼勇治さん(49)。
生まれ育った双葉町で不動産業などを営んでいたが、震災を機に現在は茨城県に移り、子どもも生まれた。当面、双葉町に戻る予定はないという。
原発に疑問を持ったことがなかった少年は、どのように故郷と向き合っているのだろうか。
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大沼さんは、原子力をPRする標語を作った責任を感じ、標語の“書き換え”を行ったことがある。標語の一部を別の言葉にして発表したのだ。
「原子力 制御できない エネルギー」
「脱原発 明るい未来の エネルギー」
さらに震災から3年後には、看板近くに、心境を描いた詩が書かれたパネルを設置した。
新たな未来へ
双葉の悲しい青空よ
かつて町は原発と共に「明るい」未来を信じた
少年の頃の僕へ その未来は「明るい」を「破戒」に
ああ、原発事故さえ無ければ
時と共に朽ちて行くこの町 時代に捨てられていくようだ
震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい
いつか子供と見上げる双葉の青空よ
その空は明るい青空に
震災3年 大沼勇治
「初期被曝があったのかどうかはわからないままです」
現在、大沼さん一家は茨城県の古河市で生活している。震災後、双葉町は埼玉県加須市に役場機能が移転していた。その近くで住所を探していたのだ。
一時帰宅で何度も双葉町には戻ったが、「いつかは双葉町に戻りたい」という思いは時間と共に現実から乖離していった。
「震災が起きるまでは『いつか出て行ってやる!』と思っていた双葉町ですけど、震災で避難生活を強いられる中で『双葉町に戻りたい』という思いが募った時期もありました。ただ、子どもたちを連れて戻るのは難しいのも現実です」
2人の息子は震災後に生まれたため、双葉町を故郷だとは感じていない。
「愛知県での避難生活中に2人の息子が生まれました。長男は震災の年に、2年後に次男。だから2人とも、双葉町の生活を知らないんです。自分たちのルーツが双葉町と言われても、実感がないと思います。内部被曝の検査は事故後3年経ってから行われたため、初期被曝があったのかどうかはわからないままです」