「たまになら行けても、双葉町に住むのは私にとっては難しい」

 大沼さんが住んでいた双葉町の避難指示は22年8月に解除され、9月には新庁舎で業務が始まったものの、住民の多くは戻っていない。

 震災直前の2011年2月28日に7100人だった人口は、2025年2月28日には5265人と3割近く減少した。その中にも、県外避難者2645人、県内避難者は3766人が含まれている(転出者や転入者、出生者を含む支援対象者)。大沼さん自身はすでに住民票を移し、双葉町民ではなくなっている。

原発PR看板のあった辺りで家族写真を撮影。この場所に看板を残せなかった無念も伝えた(20年9月19日)

「ローンもありますし今の家を離れるつもりはありません。それに、子どもたちにとってはここが故郷です。たまになら行けても、双葉町に住むのは私にとっては難しい。母親はまだ双葉町の住民登録をしているので広報が送られてくるのですが、訃報に知っている人が出てくると悲しくなります」

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 東日本大震災と、それに伴う東京電力・福島第一原発事故から14年。避難者の生活や思いも、その人たちの現実に合わせて変化していく。

最初から記事を読む 「原子力 明るい未来の エネルギー」という有名すぎる標語を作った元小6男子が、32年後の看板撤去に反対した理由「原発事故前は誇りに思っていました…」

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