2011年3月11日、東日本大震災に端を発する福島第一原発事故が起きた。当時の菅直人総理大臣が原子力委員会の近藤駿介委員長に依頼してシミュレーションした「最悪シナリオ」では「東日本壊滅」も想定されていたというが、実際には回避された。どのような経緯があったのか。
ここでは、NHKメルトダウン取材班が10年をかけて、1500人以上の関係者取材で事故の真相を追った『福島第一原発事故の「真実」』(講談社)より一部を抜粋。
震災発生から9時間以上が経過した3月12日の午前0時すぎ、1号機の格納容器の圧力が通常の6倍に達しているのがわかり、2号機もやがては圧力上昇するとみて、当時の所長であった吉田昌郎さん(56歳)は1号2号とも「ベント」という圧力を下げるための緊急措置を行う決断をした。
どれほど放射線量が高いかもわからない中、決死の思いで作業を続ける運転員たち。そんな中「自分自身で現場を確かめなければ」と焦燥感を募らせていた菅総理が現場にやってくる。その緊迫感漂う様子を紹介する。(全4回目の2回目/続きを読む)
※年齢・肩書はすべて当時のものです。
◆◆◆
早朝の総理来訪
東の空が白み始めていた。
午前5時30分すぎ。総理官邸地下1階の危機管理センターに菅が補佐官の寺田学(34歳)らを引き連れて降りてきた。
午前3時59分に新潟と長野の県境で震度6強の地震があったのに続いて、午前4時31分にも同じ場所で震度6弱の地震が起きた。東京も繰り返し大きな揺れに襲われた。巨大地震に誘発され、全国各地で大きな地震が起きるのではないか。言い知れぬ不安が疲労感漂う危機管理センターに重くのしかかっていた。菅が降りてきたことに気が付いた官房副長官の福山哲郎(49歳)が近づいて、短く言った。
「ベントがまだ終わっていません」
菅の表情に驚きが走った。ベントは午前3時に行っているはずではなかったのか。もう2時間半も経っている。菅は、福山らを連れて、足早に危機管理センターの中二階にある小部屋に向かった。東京電力の武黒一郎(64歳)が待機していた。
「なんで終わってないんだ」
菅は険しい表情で問いただした。武黒はこわばった表情で口を開いた。
「ベントには電動と手動があるのですが、電動は停電のためできないのです」
武黒は、手動で行うための作業準備に時間がかかっているうえに、現場は放射線量が上昇して作業に入りにくい状況だと説明した。
しかし、菅や福山にとっては、漠然とした具体性に乏しい説明が続くばかりで、とても納得がいかなかった。そんなことをしているうちに格納容器が爆発するのではないか。不安と焦りが募ってきた。