福島第一原発 ついにベント作業の開始
そのときだった。吉田が会議室に入ってきた。手には1号機の原子炉建屋の図面を持っていた。
菅の苛立った様子にひるむこともなく、吉田は図面に記された建屋2階にある電動弁と地下1階の空気弁の位置を指さしながら説明を始めた。
「電源がないので、この電動弁と、空気弁を手動で開けなければならないんです」
説明は具体的だった。苛立っていた菅の雰囲気が変わった。
吉田は原子炉建屋の放射線量が上昇していて、作業がやりにくくなっていることも説明した。菅はやや落ち着きを取り戻し「そうは言っても早くやってもらわなければ困る」と言った。
「決死隊をつくってやります」このとき、吉田は、決死隊という言葉を2回口にして、必ずベントを実施すると言った。決死隊という言葉に会議室の何人かがはっとした表情を見せた。やりとりは20分ほどで終わった。
菅は東京電力の中で初めてまともに話ができる人間に出会ったと思った。「非常に合理的でわかりやすい話ができる相手だ」そう思った。頭の中に吉田という名前がくっきりと刻み込まれた。事故以来曖昧で責任を回避するような受け答えばかりを聞いてきたため内面に溜まっていた苛立ちや不安がわずかながら消えていくような感覚を覚えていた。
「総理相手に自由に発言できる雰囲気ではなかった」吉田はそう思っていた。十分に説明しきれなかったとも感じていた。しかし、振り返る余裕はなかった。すぐに難航しているベント準備に向き合わなければならなかった。
会議室から出た菅は、足早に1階に降りて行った。硬い表情で、口を結んで無言のまま前を見据え、円卓のある2階の緊急時対策室に激励に寄ることはなかった。
菅が免震棟から去った後の午前8時3分。吉田は、中央制御室に、午前9時を目標にベント実施の作業を始めるよう指示を出した。午前8時4分、菅は、福島第一原発を後にした。ベント開始が迫った午前8時27分、免震棟に、避難指示を受けていた地元の大熊町の住民の避難が完了していないという情報が入った。避難完了までどれぐらい待たなければならないのか。免震棟に微妙な空気が流れた。しかし、およそ30分後の午前9時3分、免震棟は避難が終わったことを確認した。結果的に、吉田は、目標としていた午前9時すぎに、ベント作業の開始にゴーサインを出した。