女郎は貧しい親の手で妓楼、すなわち遊女屋に、年季証文と引き換えに売られていた。楼主、すなわち妓楼の主人は、自分が買い取った「商品」である女郎を、原則10年(それはさまざまな理由で延ばされた)の年季が明けないかぎり、滅多なことでは解放しなかった。
そんな状況下で、客が妓楼に身代金を支払って年季証文を買い取り、身柄を引き取ってくれる身請けは、女郎にとって堂々と吉原を離れられるほぼ唯一の道だった。しかし、よほどのスターでもないかぎり、客も高額の身代金など支払わない。1400両(1億4000万円程度)という、江戸中で話題になるほどの巨費と引き換えに、富豪のもとに落籍した五代目瀬川は、ほかの女郎たちの羨望の的だったに違いない。
瀬川としても、ほかの女郎たちに希望を見せたつもりだったろうが、残念なことに「夫」の化けの皮は、しばらくして剥げることになった。
「検校」の意味
第9回「玉菊燈籠恋の地獄」(3月2日放送)で、蔦重は瀬川に身請け話を断るように懇願し、鳥山検校について、幕府の優遇策に乗じて大金を稼ぐあくどい奴だ、という旨を伝えていた。これがどういう意味か、まず説明したい。
身請けした人物が「検校」であったことにヒントがある。「検校」とは名前ではない。平安時代や鎌倉時代には荘園や社寺を監督する役職名で、室町時代からは盲官を指す言葉になった。なかでも盲人の最高位がそう呼ばれた。男性の盲人の互助組合「当道座」が設定していた官位で、最高位の検校の下に別当、勾当、座頭の計4官があり、さらに16階73刻に細分化されていた。
この「当道座」は幕府公認の組織だった。当時は医学が未発達で衛生状況もよくなかったため、病気や栄養不良が原因で視覚障害を起こす人が少なくなかった。だから、幕府も盲人への優遇策の一環として、このような組織を認めていた。
当時の盲人は仕事をするにもおのずと制約があり、平曲や地歌、筝曲(そうきょく)の演奏のほか、按摩(あんま)や鍼灸以外に道はほとんどなかった。だからこそ互助組織が必要で、幕府も盲人にできる職業の独占権のほか、一定の自治権や裁判権もあたえたのである。