延享元年(1744)生まれの鳥山検校は、瀬川を身請けした安永4年(1775)にはまだ30歳そこそこだった。しかし、1400両(1億4000万円程度)など楽に支払えたのである。
検校たちのこうした実態を、幕府もそれなりには把握していたようだが、盲人優遇策は家康以来の幕府の政策なので、手出しをしにくかったようだ。
ところが、瀬川の身請けから3年して、鳥山検校の人生は一挙に暗転した。きっかけは旗本の森忠右衛門が、借金を返済できずに妻らとともに夜逃げをしたことだった。結局、忠右衛門は息子に説得されて出頭し、町奉行所の取り調べを受け、高利貸しによる多額の負債について吐露した。
さすがに幕府も、有事の際に真っ先に将軍のもとにはせ参じるべき旗本が、借金苦のために逃走したとあっては、もはや放置できない。ついに検校らが摘発されることになった。
没収された財産は100億円以上
こうして鳥山検校以下、8人の検校をはじめとする悪徳の高利貸しが捕らえられた。翌安永8年(1779)には、獄死した名護屋検校を除く7人の検校に追放処分が下されている。
なかでも鳥山検校は、高利貸しだけでなく、吉原での豪遊や、瀬川の身請けについても糾弾された。すべては幕府の優遇策を逆手にとったものだったのだから、当然だろう。結果として全財産没収のうえ、江戸そのほかから追放となった。むろん検校職も奪われ、当道座も除名になり、財産だけでなくすべての特権を失うことになった。
このとき鳥山検校が没収された財産は、日本橋瀬戸物町の家屋敷のほか、10万両(100億円程度)と貸付金1万5000両(15億円程度)だったという。
こんな男に身請けされても、瀬川は女郎たちの希望だったといえるのだろうか。彼女のその後については、喜多村信節という国学者による『筠庭雑考(いんていざっこう)』に、深川に住む武士の妻となって2人の子を産み、夫の没後は髪を下ろし、本所の大工と連れ添ったと記されている。