世界的巨大ターミナルから1日に数人しか使わないような小駅まで、日本には9000もの駅があるという。日夜乗っている電車の終点もそんなたくさんの駅のひとつだが、えてして利用者の多くはその手前の「いつもの駅」で下車してしまう。

 そうした様々な終着駅を歩き続けた鼠入昌史氏の著書『ナゾの終着駅』より、一部を抜粋して掲載する。一見すると単なる“私鉄沿線の高級住宅街”に見えた大阪の「雲雀丘花屋敷」、じつは知られざる過去が……。

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宝塚線でよく目にする「雲雀丘花屋敷」の西改札口

もともと「花屋敷駅」と「雲雀丘駅」があった

 もともとこの地域には、宝塚線開通とともに花屋敷駅が設けられた。その場所は雲雀丘花屋敷駅よりも少し東側。1910年の開業である。直前に開発された花屋敷温泉に因んで名付けられたものだという。

 その後、北に長尾山の丘陵が広がるこの土地に目をつけた阿部元太郎という人物が中心となって、雲雀丘の宅地開発がはじまった。

 阿部は新住宅地の玄関口として、新たな駅の設置を要望した。そうして1916年に開業したのが、雲雀丘駅であった。今の雲雀丘花屋敷駅よりわずかに西に位置していたという。

 そして駅を中心として高級住宅地・雲雀丘を築いていった。つまり、阪急が自ら手がけた町ではなくて、まったく別の人物によって開かれた町がルーツだったのだ。雲雀丘の駅前ロータリーには阿部の銅像が置かれていたというから、なかなか気合いが入っている。

 開発されたのは、洋風住宅と和風住宅が混在する、大正時代を象徴するような住宅地だ った。山の斜面にへばりつくような一帯を開発したので、整然とした街路を整備するのは難しい。それでも、地形に沿った曲線道路は自動車が通れるような幅とカーブで設計されていたという。

 まだまだ自動車など普及していなかった時代のお話である。それだけ先見の明があったともいえるし、切り開いた住宅に暮らす人たちにはクルマを乗り回せるほどの相当な資産家を当て込んでいたともいえる。

 いずれにしても、かなりの高級住宅地だったようだ。ちなみに、東京の田園調布を開発した五島慶太もしばしば雲雀丘に視察に訪れていたらしい。