ほとんどの事故は、自分の身を守ろうとするヒグマの防衛的行動
私もそのうちのひとりだった。テレビディレクターになって3年目だった私はその夏、札幌中心部で起きた事件の検証を切り口に、ヒグマをテーマにした番組を作るよう上司に命じられていたのだ。
とは言うものの、ヒグマは自分にとって縁遠いテーマだった。自然や動物を取り上げる番組を制作した経験さえなかった。何のためにヒグマは人間を襲うのか、そもそもヒグマとツキノワグマがどう違うのかさえ、何ひとつ知らなかった。
まずはインターネット上の新聞記事のデータベースに「ヒグマ」と打ち込み、関連する報道をひたすら追うことから始めた。
7月2日、道南の福島町で畑仕事へ出た女性が遺体となって見つかった。そばには遺体を隠すためにヒグマが掘ったとみられる直径70cm、深さ20cm程度の穴があった。7月12日、道北の滝上町で本州からの旅行者が頭部から大量の血を流して林道で死亡。性別すらわからないほど激しく損傷した状態だった。
そんな生々しい内容が書かれた記事が並んでいた。そしてほとんどの事例が、人間とヒグマがお互いに気付かないまま遭遇し、自分の身を守ろうとするヒグマの防衛的行動によって発生した事故だと結論づけられていた。
だが、そうした多くのケースとはまったく異なる、ひときわ奇妙な内容の記事が全国紙の夕刊の一面を飾っていた。それが、OSO18に関する記事だった。
動機も正体もわからない1頭のヒグマ
たった1頭のヒグマが55頭もの牛を襲うという行動は、いささか猟奇的に思えた。しかし、その記事に目を引かれたのは“数”だけが理由ではなかった。襲った牛を食べないという動機の謎、人前に姿を現さないという正体の謎。事件の経過を調べていくうちに、私は、動機も正体も、一切がわからないミステリアスな存在に強く惹きつけられていった。
それ以来、札幌中心部での事件の検証番組を制作しながら、心は北海道東部の森に潜む1頭のヒグマに吸い寄せられるようになっていった。上司に命じられた仕事をこなし、制作を続けているうちに、いつしか夏は過ぎ去っていた。
