テニススクールにも「日枝詣で」
フジ社内で出世を目論む者は「日枝詣で」を重ねることが必要条件とされる。
「日枝さんは政治好きで『プライムニュース』のキャスターだった反町理氏を取締役に抜擢。反町氏は、永田町の取材メモをいそいそと日枝詣での場で囁いていました。また、政治部上がりの石原正人取締役は一時期、報道局長から秘書室長に飛ばされたものの、反町氏と競うかのように永田町情報を日枝氏の耳元で囁き続けた。その結果、めでたく常務に上り詰めたのです」(政治部記者)
「日枝詣で」はエスカレートし、時に日枝氏の愛妻に接近する強者も現れる。
「ある取締役は、日枝氏の奥さんが通うテニススクールに自分の妻を通わせていた。覚えめでたくなり、専務に上り詰めたと言われています」(同前)
フジ元幹部が間近で見てきた光景の一端を明かす。
「役員人事の際、日枝氏が社長室に新役員を呼び出し、直々に任命するのがしきたりになっている。社内では『まるで天皇陛下による任命式のようだ』と揶揄されてきました」
前出のフジ幹部が言う。
「今の役員は日枝氏に任命された子飼いばかり。意見できる人は誰1人いない。会見直前に行われた臨時取締役会でも日枝氏の会見出席について議題にすら上がらなかった」
日枝氏が“フジ天皇”になるまで
日枝氏は、どのような経歴を歩んできたのか。早稲田大学教育学部を卒業後、1961年にフジに入社。キャリアの序盤は、報道部の記者だった。時は1964年の東京五輪。一大イベントに向け「放送実施本部」が設置され、日枝氏は「遊軍記者」に抜擢された。
日枝氏の2年後輩にあたる元フジテレビアナウンサーの岩佐徹氏が振り返る。
「名前の『久』にちなんで『キュウさん』と呼ばれ、兄貴分的な存在でした。当時の遊軍は、五輪でメダルを獲ったアスリートたちをその場で捕まえて出演交渉するという花形の仕事。水泳で待望のメダリストが出た際、キュウさんは選手たちをいち早く捕まえて、裏の厨房を通して連れてきた。そういう機転を利かせて状況を乗りこなす彼には憧れもあったし、リスペクトもしていました」
1980年5月、日枝氏は創業家で当時副社長だった鹿内春雄氏の抜擢により、42歳の若さで編成局長に就任。目玉のマークをロゴに据えた“鬼才”として知られる春雄氏と共に、フジの黄金時代の礎を築いた。
2年後輩の元フジテレビアナウンサー・露木茂氏が証言する。
「日枝さんが編成局長のとき、上司・部下という関係でした。それはそれはやり手で全員が認めるところでしょう。明るく振る舞おう、職場の雰囲気を明るくしようと努力していたと思いますね」
日枝氏が代表取締役社長に就任したのは、春雄氏が急逝した2カ月後の1988年6月のこと。1992年にクーデターを起こして鹿内宏明氏を追放すると、次第に独裁色を強めていく。

