“脱北者”と呼ばれる人々の著書を読むたび、私の心には「よくぞご無事で!」という言葉が湧き上がる。それは、ハリウッド映画などで描かれるハードボイルドな脱獄劇さえ子供騙しに思えるほど、彼等の体験が凄まじく強烈だからだ。中でも著者のように日本で生まれ育った元在日コリアンが、六〇年代にピークであった“帰国事業”で北朝鮮に移住し、数十年後に命がけで「北」を脱出する話に触れるたび、資本主義社会での生活習慣がある人間がどのように彼の国での生活に耐えたのかを想像し息が詰まる。
本書は、北朝鮮の文学界で作家として小説を書いていた著者だからこそ知り得る「矛盾だらけの社会を美しく描き群衆を教育するためのテキスト」が作られる過程が克明に記されている。指導者が偶像化・神格化されていることを漠然とだけ知っている私たちに、その洗脳の舞台裏を解剖しながら見せてくれる。
また、日本からの“帰国者”である著者の生い立ちから脱北までの波乱万丈が淡々と語られる。今は韓国と日本を行き来しながら暮らす著者だが、一度は“脱北”に失敗し中国から強制送還され、拷問を受けながら地獄のような監獄生活を送ったという。にもかかわらず、著者の言葉には“恨み節”のような響きが微塵もないことに驚く。自身のことを“今はそれなりに幸せだ”と語りながら、凄絶な過去をすべて突き放し達観する作家としての視点が随所で光を放つ。その強(したた)かな精神力に感服する。
そしてもう一つ、著者の個人史にとどまることなく、三代にわたって世襲を遂げた金王朝が七〇年代から二〇〇〇年以降までの間、どのように継承されてきたのかも生活者の視点からとてもわかりやすく語られている。特権階級から物乞いをする子どもたちに至るまでの、生活感ある描写が飽きさせない。半島の南北関係が激動する今、「北」で暮らすとはどういうことかを肌感覚で知るための教科書としても素晴らしい。
“脱北者”という言葉が定着して久しい。生きる権利を求め北朝鮮を脱出した人々の数は十万人に上る。韓国だけではなく、アジア、アメリカ、ヨーロッパと世界中で第二の人生を歩む彼らの逞しさは今後多くの物語に登場するだろう。日本にも二百人以上が暮らしている彼等をカテゴリーで束ね語るのではなく、共に社会をつくる仲間として知り合いたいと思う。
私の実兄たちも七〇年代に日本から「北」に渡った“帰国者”だ。家族訪問を繰り返すたび「北」の実情に驚き怒り涙したことを思い出している。
キムジュソン/1970年代に朝鮮総連幹部だった祖父母と共に北朝鮮に帰還。同国の師範大学を卒業後、大学講師を経て、朝鮮文学創作社(作家同盟)等に勤務。2009年に脱北。現在は社団法人「学んで分ち合う虹」の理事。脱北した青少年の支援活動にも尽力。
ヤン ヨンヒ/1964年大阪生まれ。映画「かぞくのくに」「ディア・ピョンヤン」などを監督。近著に『朝鮮大学校物語』(KADOKAWA)。