3月3日、台湾の代表的企業・TSMCは、アメリカの製造拠点に1000億ドル(約15兆円)を追加投資することを発表した。同社は半導体の受託製造(ファウンドリー)で世界一のシェアを誇る。創業者のモリス・チャン氏は一代にしてTSMCを世界的企業に育て上げたが、その秘密は他の国・企業がやりそうにもない「競争の空白地帯」を狙ったことにあった。
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「アジアの孤児」台湾へ
1971年、国連は中華人民共和国の代表権を認めると同時に、中華民国(台湾)を追放。そこから国交断絶のドミノ倒しが始まる。日本とは72年に、そして米国とも79年に屈辱的な形で国交を断絶した。
国交断絶を告げる米国からの知らせは深夜、総統官邸を急襲するようにして行われた。米国大使は蒋経国総統と孫運璿行政院長(日本の首相に相当)に、「米国大統領は今から7時間後に、中国との国交樹立を宣言する」と一方通告したのだ。
米国の経済支援と、日本の円借款という後ろ盾を失えば、国家経済壊滅の瀬戸際に立たされる。だが幸いだったのは、政策実務家たちが現実主義者だったことだ。孫はハルピン工業大学を首席卒業し、台湾のエネルギーインフラ整備を指揮したテクノクラート(技術官僚)だった。この孫を政務委員(無任所大臣)として支えたのが李国鼎。彼もまた物理を専攻した理系人材。2人を中心とするテクノクラート集団は、台湾が他国と「平起平座(対等)」になるには高い経済力が不可欠で、その手段はハイテク産業振興しかないと見定めた。
彼らが推進したハイテク振興策のうち、特に重要なのが応用研究所の工業技術研究院(ITRI)と、ハイテク工業団地の新竹サイエンスパークの開設である。外資企業から技術を吸収し、それを企業に移植するというワンセットの装置を整えたのである。
この装置に血を通わせるために、優秀な理系華人を次々と米国から呼び寄せた。このお雇い外国人ならぬ華人の1人が、モリスだった。
1985年夏、モリスは36年暮らした米国を離れ台湾に渡る。肩書はITRI院長で、孫からは「半導体研究の成果を産業界に移植してほしい」と求められた。

