ここまで蔦重と瀬川は、幼馴(な)じみであるだけでなく、ともに男女として思い合っている関係として描かれてきた。第9回「玉菊燈籠恋の地獄」(3月2日放送)では、瀬川が鳥山検校に身請けされそうだと耳にした蔦重は、「俺がお前を幸せにしてえの。だから、行かねえでください」と瀬川に告白している。

それは瀬川が待ち望んでいた言葉だった。2人は将来を誓い合い、瀬川の年季が明けるまで待つのが困難だと認識してからは、蔦重は足抜け、すなわち瀬川を吉原から逃がす計画まで立てた。

さて、「べらぼう」で描かれる蔦重と瀬川の純愛関係は、はたしてどこからどこまでが史実で、どこからどこまでがフィクションなのだろうか。

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意外な蔦重の生い立ち

蔦重は寛延3年(1750)正月7日に生まれたという。国学者で狂歌師としても知られる石川雅望による蔦重の墓碑銘には、「喜多川柯理(からまる)、本姓は丸山、蔦屋重三郎と称す。父は重助、母は広瀬氏、寛延三年庚午正月初七日、柯理を江戸吉原の里に生みて出づ。幼にして喜多川氏の養う所となる」と記されている。(カッコ内は編集部作成)

また、戯作者の太田南畝(なんぽ)の手になる蔦重の母の墓碑銘には、「広瀬氏は書肆(しょし)耕書堂の母なり。諱(いみな)は津与、江戸の人。尾陽の人丸山氏に帰し、柯理を生む」とある。

そこからわかるのは、蔦重は尾張出身の(尾陽とは尾張地方のこと)丸山重助と江戸生まれの広瀬津与のあいだに、吉原に生まれたが、幼少時に実の父母のもとを離れ、喜多川氏に育てられた、ということである。丸山重助が吉原にいた理由はわからないが、だれかを頼って尾張から出てきたのだろう。喜多川氏のことも具体的にはわからないが、吉原で「蔦屋」を名乗る妓楼や引手茶屋を経営していた者だとされる。

蔦重はのちに天明3年(1783)になってから、実の両親を自身の新居に迎え入れているから、関係が切れたわけではなかったようだが、なんらかの理由で幼少時に親元を離れ、以来、喜多川氏のもと吉原で育ったということのようだ。