「これはハル・ノートに等しい」
ホンダの提案は日産にとって屈辱的なものだった。日産内部では「これは『ハル・ノート』に等しい」との声さえ上がったという。太平洋戦争直前に米国務長官のコーデル・ハルが日本に突きつけた交渉文書と同じだというのだ。
なぜホンダはここまで強硬な提案をしてきたのか。社内からはこんな声が聞かれる。
「日産は意思決定が遅く、それが影響して経営統合の前提条件であったリストラの着実な実行も遅れていた。それに三部(敏宏)社長がいら立ち、子会社化を提案した」
提案への回答期日は2月4日。前日の3日、日産の主要執行役員が集まった会議で、提案は受け入れられないと確認し、結果を内々にホンダ側に伝えた。5日に内田社長は日産取締役会に協議打ち切りの意向を伝えた。関係者によると、丸紅で社長・会長を務めた社外取締役の朝田照男氏も「ホンダのやり方はひどい」と憤慨を露わにしたという。
2月6日、内田氏は東京・青山のホンダ本社を訪問し、三部氏に子会社化は受け入れられないと伝えた。「当日、三部社長以下の一部役員は北海道にある冬季試験場で車の試乗をするはずだったが、急遽中止して内田社長を待った」(ホンダ関係者)という。
そして13日、日産とホンダはそれぞれ取締役会を開き、正式に経営統合交渉の打ち切りを決議した。取締役会後、三部氏はオンラインで記者会見し、破談の経緯を説明した。
「スピード感が重要な時代に、持ち株会社と事業会社のガバナンス体制を作るのに、当初の想定よりも時間がかかり過ぎることに危機感を感じたため、ワンガバナンス体制(日産の子会社化)が必要と考えたが、合意点を見いだせなかった」
対する内田氏は記者会見で、「ホンダの完全子会社になった時、経営の自主性が守れるのか、日産のポテンシャルが引き出せるのか、確信が持てなかった」と語った。内田氏の真意を日産関係者が解説する。
「内田氏は持ち株会社の社名はホンダの提案を受け入れてもいいと思っていたようだが、さすがに子会社化は受け入れられなかった」
※本記事の全文(約9000字)は「文藝春秋」2025年5月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(井上久男「ホンダ三部社長と鴻海関CSOが盃を交わした夜」)。
全文では下記の内容をお読みいただけます。
・みずほの加藤頭取が激怒
・2つに割れた指名委員会
・破談後、鴻海は動きを加速した
・ルノーの保有株がハードルに
・日産社外取締役の責任は
・新社長の再生シナリオ
