日産の内田誠社長が退任し、後任としてイヴァン・エスピノーサ氏が4月1日付で社長に就任した。内田氏が退任したことで、日産とホンダの再交渉はあるのか――。
再交渉の壁となる“感情的なしこり”を生んだ、交渉決裂までの内幕を、井上久男氏のレポート「ホンダ三部社長と鴻海関CSOが盃を交わした夜」から一部紹介します。
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経営統合交渉破談の真相
まずは、昨年から始まったホンダとの経営統合交渉が破談に終わった真相、そして内田社長の退任が決まった内幕を探りたい。
社長交代の記者会見から遡ること約1か月、日産とホンダが経営統合に向けた検討に関する基本合意書を破棄すると公表したのは決算発表と同じ2月13日のことだった。共同持ち株会社に両社がぶら下がる形での統合が実現すれば、トヨタ自動車、独フォルクスワーゲンに次ぐ世界3位の自動車連合ができるはずだったが、破談に終わった。
結果から振り返ると、その破談の大きな要因はホンダの強気な交渉姿勢にあったのかもしれない。
1月14日、経営統合協議の場でホンダは日産に対し、共同持ち株会社の名称をこう提案した。
「ホンダホールディング」
さらに取締役10人の構成は、ホンダ7人、日産3人とした。
取締役の比率は、経営統合交渉入りの発表時に「持ち株会社の社長と役員の過半数をホンダが指名する」と決まっていたため、日産側もさほど驚かなかったが、「さすがにこの社名は呑めないと思った」と、ある日産幹部は明かす。
企業の合併や経営統合で「対等」を強調するのは「演出」であり、いつでも強者が弱者を呑み込むのが実態だ。しかし、日本では買われたほうの企業への配慮がしばしばなされる。住友銀行主導の合併が「三井住友銀行」となり、新日本製鉄と住友金属工業の合併も、新日鉄が強者なのに当初は「新日鉄住金」(現・日本製鉄)と住友の名を残していた。
だが、ホンダに惻隠の情はなかった。業績悪化に喘ぐ日産に、いきなり剛速球を投げ込んだのである。
「それでも日産は、社名を受け入れてでもホンダと組むべきだった」
と、前出の日産幹部は振り返る。
ことは社名に留まらなかった。3日後、さらにホンダは危険球スレスレのボールを投げ込んできた。
「株式交換によって日産をホンダの完全子会社としたい」
加えて、クルマの骨格であるプラットフォームをホンダ製で統一することとし、その結果、日産側には不要人員が3万7000人も出ると試算。統合準備委員会のワーキンググループのトップも、すべてホンダから出すとの提案だったという。
共同持ち株会社方式の経営統合なら、事業会社の日産は経営戦略や人事について一定の裁量を持てるが、完全子会社化となればホンダの一部門になることを意味し、戦略立案や人事はすべてホンダの管轄となる。たとえるなら、トヨタ自動車とダイハツ工業の関係と同じだ。ダイハツはトヨタの小型車戦略の中に位置づけられ、社長をはじめ、主要役員はトヨタから派遣されている。