年に3日、会えない日

 私の2回目の市長選のときは、野中さんが自民党を離れていた時期だったので、応援に来てくれました。政界引退後も、京都のレストランや天ぷら屋さんで何度もお食事をし、語り合いました。

 でも年に3日だけ、会えない日がありました。野中さんが慰霊式に参加するためです。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の日は、野中さんが自治大臣・国家公安委員長のときに起こったからです。もう1日はJR西日本の福知山線脱線事故の日で、野中さんが旧制中学校を卒業後、国鉄の大阪鉄道局に勤めたから、という理由でした。しかも目立つのを避けて、式典のあとに献花をされていたそうです。

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 政治家としてお手本だったし、あんなに優しい人はいませんでした。“人間・野中広務”とお付き合いさせていただいたことは、私の生涯の宝です。

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 このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 リーダー篇』に掲載されています。

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