きょう6月20日は、任天堂でファミコンやスーパーファミコンなどを開発した上村雅之の誕生日だ。ちょうど来月15日にはファミコンの発売(1983年)から35年を迎える。
ファミコン開発の発端は社長からの電話だった
上村雅之は1943年東京生まれ。戦時中に疎開した京都で高校時代まですごしたあと、千葉工業大学電子工業科に入学、コンピュータについて学んだ。卒業後は早川電機工業(現・シャープ)に入社。産業機器事業部光半導体営業部門の光検出器販売部署に在籍していたころ、任天堂の開発部門から「光線銃」の商談を持ちこまれる。このとき回路設計の援助と、当時としてはきわめて低価格な光検出器を開発し、販売に成功する。これが縁となり、1971年に任天堂に移籍した(上村雅之・細井浩一・中村彰憲『ファミコンとその時代 テレビゲームの誕生』NTT出版)。
ファミコン開発の発端は1981年の秋、当時の任天堂社長・山内溥(ひろし)から上村宅にかかってきた電話だった。このとき、「家庭のテレビでアーケードゲームが遊べる機械を作ってくれ」と指示され、上村は途方に暮れた。たしかに当時、アメリカではアタリ社の家庭用ゲーム機がヒットしていたが、それは1台2~3万円もした。しかも山内は「3年間は他社に真似されないこと」という無理難題ともいえる条件をつけて開発を命じた。それというのも、前年の1980年に発売した「ゲーム&ウォッチ」が爆発的にヒットしたにもかかわらず、1年後には類似商品が出て売れ行きが落ちていたためである。
真似されないゲーム機をつくるには
簡単に真似されないゲーム機をつくるには、その頭脳であるLSIの集積度を高めるのが一つの方法だ。そこで上村は半導体メーカーをまわって開発を頼んだが、ほとんど関心を持たれなかったという。なぜなら当時の半導体業界は、将来性の高いパソコン市場に目を向けていたからだ。パソコン用のLSIは文字と静止画にすぐれていたのに対し、ゲーム機用は動画が中心とまったく違った。
そんななかで唯一、任天堂の申し出に興味を示したのがリコーだった。上村がさっそく同社の工場を訪ねると、驚いたことに、かつて任天堂が「カラーテレビゲーム6」「同15」(いずれも1977年発売)を企画したときに別の電機メーカーで協力してくれた開発チームが丸ごと転職しており、このときも熱心に協力に応じてくれた(『文藝春秋』2013年9月号)。