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発売35周年“ファミコンの父”上村雅之とは一体何者なのか?

きっかけは社長からの1本の電話だった

2018/06/20
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コントローラーが2つある理由

 ファミコンではLSIを2個しか使わず、大幅なコストダウンをはかった。コントローラーは、すでにゲーム&ウォッチで採用されていた十字ボタンを組みこんだ平面型とし、指の感触だけで操作できるようにした。また、ファミコンは発売にあたり「ファミリーコンピュータ」と名づけられたように、家族の集まる居間で遊ばれることを想定していたため、二人で同時に遊べるようコントローラーも2個となった。

©文藝春秋

 なお、商品名としてはファミリーコンピュータとともに、あらかじめ略されることを見越して「ファミコン」も提案されていたという。結局、略称では家族全員で遊ぶことが可能なイメージを伝えるのは難しいということで前者が選ばれたものの、ブームになってからはファミコンの愛称が人々のあいだで定着し、のちには商標登録もされた。

熱中する子供たち ©文藝春秋

もし、任天堂にファミコン以外の売れ筋があったら……

 もっとも、発売当初のファミコンはなかなか売れなかった。すでにアメリカでは前年の1982年に、先述のアタリ社の急激な業績不振により、カセット式テレビゲーム市場が崩壊していたこと(アタリショック)が逆風となった。国内でも各社がゲーム機を販売して乱立状態になっていた。ファミコンの定価は1万4800円と、当時想定できる最安値で売り出されたものの、クリスマス商戦では他社の値下げに苦しむことになる。そこへ来てLSIに重大な不具合が見つかり、出荷を一時停止、年明けには正月返上で回収に追われた。

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ヨドバシカメラでファミコンを買う人々 ©文藝春秋

 このときについて上村は、《もし、任天堂にファミコン以外の売れ筋商品があったら、社内間の競争に破れ、生産中止の憂き目にあっていたかもしれません》とのちに振り返っている(『現代』1995年1月号)。しかし1984年に入ると、外部のソフト会社がファミコンのすぐれたグラフィックに着目し、ゲームの開発に続々と乗り出す。翌85年には任天堂から『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、ファミコンの年間販売台数は83年の45万台から、86年には390万台を超えた。こうしてファミコンは山内の最初の命令どおり、3年間真似されないまま大ヒット商品となったのである。

『スーパーマリオ』 ©文藝春秋

 上村は『スーパーマリオ』のヒット後、外部のソフト会社へ技術支援に赴く仕事で多忙をきわめる。1990年にはファミコンの後継機であるスーパーファミコンを世に送り出した。2000年代以降は、任天堂の開発部門のアドバイザーを務めるとともに、立命館大学の教授としてコンピュータゲームの学術的研究にも尽力している。

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