傷痕は現在も、三國の身体に残っている。左の鎖骨のすぐ下あたりに、ガムを噛んだあとみたいな形で、くしゃくしゃに茶色く、ひどく強情に残っている。

「殺し合い」の場での体験で身につけた「ある種の人生観」

「殺し合い」の場での体験は、「ある種の人生観」に繋がったと、三國は言う。そして、そのあたりから、話は映画や芝居に、つまり彼の人生について戻ってゆく。

「ある種の人生観」は、彼の芝居に多大な影響を与えている。さらに言えば、彼の来し方は、ほとんどそのまま「ある種の人生観」で占められているように思う。

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 戦争に行かなくたって、彼はきっと、同じような生き方しかしなかった。反骨や放浪は、十代前半からのもので、決して戦地で身につけたものではない。

宇都宮直子『三國連太郎、彷徨う魂へ』(文春文庫)

 出自や差別が幼い彼を傷つけた。時代は彼を翻弄し、結果、まるで大木のような神経を彼に与えた。

 少年のころから、彼は嘘が上手につけた。生き延びるための術を心得ていた。戦争は大嫌いだった。日本独自のナショナリズムを受け入れられなかった。反吐が出そうだった。

 三國の人生観は、とっくに出来上がっていた。いくつかの負の遺産から彼は生まれ、やがて、「三國連太郎」になった。強烈な自我を持つ役者となった。

次の記事に続く 「僕は仕事では負けたくないんです」キャリア5年目で市川崑監督に反発したことも…三國連太郎が「扱いにくい役者」であることを自覚していた理由

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