ノーベル賞を取れなくて、がっかりしていた

 三島さんは一度、「スターの気持ちを味わいたい」と、私のリサイタルに出演されたことがありました。昭和41年のことです。そのため三島さんの家に1週間、毎日行って練習をしました。三島さん、初めは音痴だったのですが、直りましたよ。すごい意志の力。ふつう音痴は1週間では直りませんもの。

 リサイタル当日は、私より前に会場の日経ホールに到着されていて、パイプ椅子をいくつか並べてソファ代わりにし、その上に寝そべって、脚を椅子の背に預けておられた。そんなポーズのまま、「スターってなんて傲慢で、いい気持ちなんだろう。君はこういう気持ちをずっと味わっているんだろ? 贅沢だな」とおっしゃった。その場にいらした奥様が「この人ったら、さっきからずっとこれをやってるのよ」とあきれていらっしゃいました。

三島由紀夫 ©文藝春秋

 三島さんは、右翼と言っても、心情右翼だったのだと思います。政治的な右翼には、経済的なことや利害関係がからんでくるでしょう? そういうこととはいっさい無縁の方でしたから。三島さんの右傾化は、心象風景なのです。戦前の少年みたいに、清く正しく美しくというモットーを真に受けて、そのまま大人になった、そういう人でした。文学も美術も、能や狂言、歌舞伎も含め、日本の素晴らしい宝物を誇りに思い、本当に日本を愛していらした。

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 三島さんは右翼だからノーベル賞にふさわしくないなんてことを言う人がいましたね。結局ノーベル賞をお取りになれなくて、ちょっとがっかりしていらした時に、私が「なんですか、あんなもの! 爆弾作ってその罪滅ぼしのために作られた賞でしょ? 私だったら、あっちがくれるって言ったって、突き返してやりますよ」と言ったら、「君は強いね。どうしてそんなに強いんだ?」とおっしゃるので、「半分女だからですよ」とお返事しました。

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