東京じゅうから、街娼たちが新宿に集まってきたシンプルな理由
1984年6月11日の日本経済新聞(夕刊)は、RAA『芙蓉館』閉鎖後の状況についてこう記している。
〈家出少年も最後には新宿に集まってくる、という。警視庁は毎年四月上旬に上野、東京、新宿の3つの駅に家出人相談所を開設、少年の保護活動を集中的に実施しているが、新宿地区で保護される少年の特徴は半分以上が女子であること。『ガールハントをねらってたむろする男が安易に彼女らにお金を渡すからだ』(警視庁少年一課)という。都内の盛り場の街娼は推定約500人。このうち6割は新宿地区で占める。〉
つまり新宿は、実質的にこの当時から家出少女を主とした街娼たちの巣窟だった。渋谷、池袋、新橋、上野、浅草など都内の繁華街を中心に散らばっていた街娼たちが、徐々に新宿に集約されていったことがわかる。
では、どうして80年代以降の街娼たちは新宿、とりわけ大久保公園界隈に集約されていったのだろうか。恐らくそれはラブホテルが乱立し、客を捕まえやすくなったことと深く関係しているのは前記の通りだが、この状況は90年代に入ってさらに加速する。
決定的な影響を与えたと言えるのが1990年8月9日に着工された『東京都健康プラザ・ハイジア』だった。都立大久保病院、スポーツ施設、カルチャーセンター、飲食店、歌舞伎町交番などを組み込んだ施設として約434億円をかけて建設され、1993年4月30日に完成した。
街娼集結のベースになっていたのは、その立地である。ハイジア西側は目と鼻の先にラブホテル群があり、外周に設置された植え込みを囲むコンクリート縁群は――ときには植え込みの縁をベンチ代わりにして休憩がとれたことからも――街娼たちが身を隠すようにして立ち春を売るのに適していたのである。
〈警視庁も今年になってハイジア周辺の摘発を強化。11月末現在、売春防止法違反(客待ちなど)の疑いで、前年同期より22人多い延べ87人の女性を逮捕した。また、女性たちから用心棒代を受け取ったとして、同ほう助の疑いで暴力団組員らを逮捕。同庁は路上売春が暴力団の資金源になっているとみて、捜査を続けている。〉(2007年12月31日『東京新聞』朝刊)
警視庁も街娼摘発を強化していたが、いたちごっこが続くなか2007年12月末、都により歩道と敷地を隔てる長さ40メートル、高さ約90センチのシルバー色のフェンス設置工事が行われ、植え込みだけだった敷地境界にも茶色のメッシュフェンスが2重に設置される。この頃には、路上売春エリアとして広く知られていたハイジア西側からは敷地内への立ち入りができなくなった。都が街娼を強制的に締め出したのだ。
同時期には、それまで街娼たちがベンチ代わりにしていた植え込みを囲むビル外周のコンクリート縁の上部にも、座りこみなどの迷惑行為を防ぐために植物のツルを模した細長い鉄製のミニフェンスも設置されている。
だが、悩ましくもこの浄化作戦は一切効果を上げなかった。街娼たちはいまも鉄製のミニフェンスを尻目に歩道に立ち、大久保公園外周まで断続的に女性が立っている状況は変わっていない。
歴史を振り返ると、“交縁”が遥か昔から地続きであることを知った。現代の夜鷹である“交縁嬢”たちが大久保公園界隈に集まったのはたぶん、必然だったのだろう。

