覚書「日本に於ける公娼廃止に関する件」には、「売淫は合法的な仕事とは認められないが、整形生計の資を得る目的で、個人が自発的に売淫行為に従事することまでは、禁止しない」とあり、個人売春である街娼はもちろん、遊郭跡地での売春行為そのものまでは禁止されなかったからだ。
遊郭は「特殊喫茶」や「貸座敷」という名の「特殊飲食店」となり、客が自由恋愛の果てに給仕や仲居と性行為に至ったまでだ、という解釈のもとで売春は許容された。
警察当局は、「特殊飲食店」に指定した地域を地図上で赤線で囲い、「特殊飲食店」の営業許可なしに一般の飲食店のままで非合法に売春行為をさせていた区域を青線で囲い、それぞれ区別した。
50万人から2年で25万人まで半減はしたものの
桃山時代から350年間続いた公娼制度の廃止は、「売春防止法」が完全施行される1958年3月末まで、「赤線」と「青線」という黙認売買春地区を生み出すことになった。
しかし廃止後も、トルコ風呂が改称したソープランドがそうであるように、「恋愛」を建前とした男女の自由意思による売春行為は、場を変えて続くという大きなうねりともリンクしていった。
事実、赤線施行当時の娼婦の数は50万人だったが、「売春防止法」の施行から2年後の1960年ごろになっても25万人を数えたと推計されている。
「売春防止法」の焦点が個人売春ではなく管理売春であるのは、現代でも同様だ。それが結果として、街娼などの個人売春の免罪符として機能していく。
売春が個人化していく中で、大久保公園が“聖地”になったのにも理由があった。
新宿は東京大空襲により焼け野原になっていたが、高度経済成長期の真っ只中である1960年代に入ると、大規模な区画整理をした上で、歌舞伎座の誘致を目玉に飲食店・映画館・遊戯施設などを集中させる大興行街計画により、新興の街「歌舞伎町」として台頭する。
「盛り場」として人を集めるにつれて、性の需要も高まる。そして1970年代の安定成長期には、大久保公園界隈にラブホテルが乱立し、客を捕まえ売春に誘いやすい状況が整った。

