新宿歌舞伎町の「大久保公園」が売買春の“聖地”と化したのには少なくとも2つのルーツがあった。1つは江戸時代から街娼が集まる“岡場所”に近接していたこと。そしてもう1つが、第二次世界大戦が終わった後に進駐軍向けのRAAと呼ばれた慰安所『芙蓉館』ができたことだった。
しかし終戦直後にできたRAAは、翌1946年には早くも崩壊が始まっている。
1945年8月26日のRAA発足から約3カ月で東京だけで50施設を超えるまでに増えていたが、翌1946年の3月1日、キリスト教の牧師や在日米軍の婦人団体などから抗議の声が挙がったのを機に、GHQは進駐軍兵士の立入禁止令を出し、表向きRAAは廃止された。
ただし、正式にRAAが消えるのは発足から3年後の1948年で、それまでは規則違反を顧みない米兵と日本人客を相手にした営業が続いていたという。実際、新宿の芙蓉館も禁止令後の1947年8月に設立されており、戦後の混乱期においては曖昧な部分があったに違いない。
「これ以降は、どんな形の売春であれ、すべては私娼となり…」
主な流れは以下である。
1946年1月21日、GHQが日本政府に対して覚書「日本に於ける公娼廃止に関する件」を出す。2月2日、内閣省が「娼妓取締規則」廃止の通達をする。これを受けて公娼制度は廃止。だからといって売春婦が一掃されたわけではない。
〈これ以降は、どんな形の売春であれ、すべては私娼となり、売春自体を禁ずる法律は消え、敗戦によって娼婦が供給される事情が増大し、また、進駐軍によって需要も拡大し風俗のコミュニティで噂になり広がった。〉
性風俗研究家の松沢呉一さんが著書『闇の女たち』(新潮文庫)のなかでこう指摘しているように、公娼制度廃止はそれまで管理されていた娼婦たちを街に解き放つだけだった。

