そもそも映画館は“アトラクション”だった
映画館に物語よりも祝祭空間としての体験を求めることは、果たして新しい事態なのだろうか。そうかもしれないが、そうではないかもしれない。これはもしかしたら、映画館という場所がある種の先祖返りしつつある予兆かもしれないと筆者は考えている。
映画が高度な物語を語り始める以前、黎明期の観客は映像がスクリーンに映されるだけで興奮した。そこには高度な演出も的確に練りこまれた脚本も芝居もなく、アクシデントも含めた現実を切り取るという興奮が支配する空間だった。
映画史研究家のトム・ガニングという人物が、物語映画が発達する以前の作品群を刺して「アトラクションの映画」と呼び、それらの作品は未熟な作品ではなく、物語映画とは別のタイプの映画なのだと論じたことがある。
物語を持たない映画とは、これまで支配的だった「物語映画」とは別のカテゴリの存在であり、決して邪道でもなければ、未熟なものでもない。
現在の映画は非常に高度にアトラクション化している。『ヒプマイ』のような観客参加型の映画はもちろんのこと、ハリウッドの大作映画も日本アニメとは異なる方向でアトラクション性を志向している。
ゲームの映像化はかつて鬼門と言われたものの、『マインクラフト/ザ・ムービー』ようなゲーム原作映画がここにきて勢力を伸ばしているのは、ゲームがアトラクションの性格が強いメディアであるため、アトラクション化しつつある映画と相性が良くなってきたのだろう。
よく映画の本質は何かと議論される。他の芸術と比べて映画が異なるのは、「運動が直接描ける」という点にある。物語を語れる媒体は小説や演劇など他にもあるが、運動を描けることこそが他の芸術にない特徴であるとすれば、アトラクションの映画は、より純粋に映画の本質に近いものと言える部分もあるかもしれない。
現在、勃興している「非物語映画」は新たな時代の映画のスタンダードとなるかもしれない。動画配信への対抗という観点で映画館は、ますますその方向へと舵を切る必要があるだろうからだ。
IPを祝福できる空間であること、そしてアトラクション的性格を強めること。映画館はそのように変化していくだろう。
筆者としては「物語としての映画」以外の可能性が開けることで、映画はより多彩なものとなることを期待している。「物語としての映画」が無くなるとは思わないが、「映画とは物語を語るもの」という常識は変わっていくだろう。
