ミケランジェロには、大理石に埋まる像の姿が見えていた
《若き洗礼者ヨハネ》と向き合ってみると、その若々しい肉体表現に陶然としてしまう。若さゆえのまっすぐさと、自信が過ぎてどこか傲慢さすら感じさせる眼力は凄まじく、まともに目を合わせることもできない。
顔、身体のあちらこちらの色が異なり、つぎはぎのように見えるのは、この像が20世紀前半のスペイン内乱で、いったんは破壊されてしまった過去があるから。長年にわたって修復が続けられ、現在はもとの姿を取り戻している。
《ダヴィデ=アポロ》は彫り残しのある未完の姿をしている。そのせいもあってモチーフがはっきりとしない。聖書に登場する英雄ダヴィデか、ギリシャ神話の神のひとりアポロかと論争があり、作品名称でも併記されている。
ダヴィデにしろアポロにしても架空の存在ということになるが、間近で観て感じるのは、これはなんと人間らしい肉体であることかということ。軽く曲げた膝の厚み、しっかりした肉付きの丸っこい胴体。ある程度年齢を重ねた人間の生々しい、それでいて理想化された肉体がそこにありありと感じられる。
生前のミケランジェロが彫刻の制作について書いた手紙が、いまに伝わっている。そこには、
「私は彫刻というものは、どうしても取り出すべきものとして制作すると考えます」
とある。彼はたとえば大理石のかたまりを前にして、すでにその中に「取り出すべきかたち」を明瞭に感じ取ったのだった。あとは実際にノミを振るって余分な部分を取り除き、石の塊からすでに埋まっていた像を見出していくだけ。
彫り残しのある《ダヴィデ=アポロ》からは、まさに岩塊からミケランジェロによって見つけてもらった像の、形態を得た歓びまでをも感じるではないか。
ミケランジェロの精神がじかに届いてくるようなふたつの彫像と、じっくり向き合ってみたい。