今年の夏休み、ヤフオクドームに来る子どもたちには野球帽がプレゼントされる。

 ホークスの今年度スポンサーで帽子の右側にロゴマークを掲出している「HUAWEIジャパン」が、球団創設80周年を記念した企画を用意した。8月にヤフオクドームで開催される対象10試合(8月4日~16日までの8試合と、25日・26日の2試合)で、各試合1000個、合計1万個のホークスの野球帽を小学生以下の来場者に無料で配布するというのだ。

 それを聞いて、ふと思い出した。僕も小学生の頃にホークス戦を観に行って帽子を貰ったことがあった。僕と同じアラフォー世代のホークスファンの方は覚えているのではないでしょうか?

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 相当昔のシロモノだけど捨てた記憶はない。もしかしたらと思い熊本の実家に帰り、かつての自分の部屋の押し入れを捜索してみたところ、わ、出てきた!

小学生の頃に貰った緑の帽子 これ以外にもデザインや色づかいの違う、多種多様な野球帽が配られていた ©田尻耕太郎

 こんなに派手だったっけ? 後日、ヤフオクドームに持っていき撮影したのだが、緑鮮やかな人工芝の上に置いてもエメラルドグリーンが「これでもか」と主張してくる(笑)。

 おそらく1989年か1990年のどちらかのシーズンで貰ったものだ。まだホークスが福岡に来たばかりで、平和台球場を本拠地としていた時代である。

 熊本の小学生にとっては、プロ野球観戦は決して身近ではなかった。年に一、二度連れて行ってもらうだけでも贅沢なお願いだった。だが、じつのところ当時の僕はホークスファンではなく、西武ライオンズの大ファンだった。郷土のスターといえば秋山幸二選手。そして強いライオンズを熱心に応援していた。ちなみにホークスファンになったきっかけは1993年オフの「世紀の大トレード」。僕と同じように秋山選手のトレードに乗っかってホークスを応援するようになった人も多いと聞く。

 とはいえ九州に「福岡ダイエーホークス」が誕生したことは凄く嬉しかった。レオ党ながらも「地元球団」にどこか愛着が生まれていたのも事実だった。帽子のサインは「カズ山本」こと山本和範選手のもの。正直、サインを書いてもらったことは忘れていた(笑)。たしか平和台球場は選手動線が曖昧で、お客さんの中を普通に選手が歩いていたような記憶がある。おそらく上手いことタイミングが合って帽子とペンを渡してお願いしたのだろう。

「カズ山本」こと山本和範氏 ©文藝春秋

なぜ子どもたちに帽子が配られたのか

 ところで、来場者にプレゼントを配るというこの仕組み。

 最近の球界では珍しくない手法で、“集客のキラーコンテンツ”となっている。その代表格がまもなく開幕する「鷹の祭典」だ。2004年にホークスがいち早く、レプリカユニフォームを来場者に配布するイベント試合を仕掛けた。現在では多くの球団に広まっている。

 しかし、昔のプロ野球ははっきり言って殿様商売だった。黙っていても客は入るし、たとえ赤字でも仕方ないという風潮だった。ホークスの野球帽配布という発想は、当時としてはかなり斬新なアイデアだったに違いない。

 ホークスもオーナー球団が替わって14年目のシーズンを迎えている。球団内にもダイエー時代を知る人は随分と少なくなったが、当時の担当者が幸い球団に残っていたため、貴重な話を聞くことが出来た。

 地域渉外担当の角田雅司顧問。かつては球団代表も務めた方だ。エメラルドグリーンの帽子を持参して話を伺いに行くと、「おー、よく持っとったな」と嬉しそうな笑み。角田氏はダイエーがホークス球団を買収したと同時に球団事業に携わり、平和台時代は「球団運営課」という部署に従事していたという。

――「損して得とれ」の時代でなかったプロ野球でしたが、よくOKが出ましたね。
角田氏「発案者は誰だったか、はっきりとは覚えていないけど、おそらくかなり上層部の方からの指令だったと思いますよ。当時の代表だったかもしれないし、ひょっとしたら中内功オーナーから降りてきたのかもしれない」

――集客にはやはり効果がありましたか?
角田氏「いや、それは違います。あの時の我々の目的は“集客すること”ではなかった。福岡はもともとライオンズがいた街。我々が来た頃はまだ西武ファンと全国的人気の巨人ファンがかなり多かった。ホークスは敵チームという雰囲気さえありました。ホークスを福岡の街に根付かせること。それが我々の大きな使命でした」

――それで子どもたちに帽子を?
角田氏「あの頃の子どもたちは野球帽を被っていたからね。ただ、ほとんどが西武と巨人。お膝元である福岡の子どもたちが福岡ダイエーホークスの帽子を被ってくれることが、何より街と球団の距離を一気に縮めてくれる効果があると思いました。テレビやポスターで宣伝するより遥かに効果が高いですよ。毎試合2000個から、多い時は5000個ほど準備しました。福岡ドームに移るまでの4年間は行っていたと思います。とにかく、我々が目指したのは単なる集客じゃない。あの野球帽は地域密着戦略のカギだったんです」