天明4年(1784)3月24日。この日も本丸御殿の表の御用部屋には、上之間に老中、下之間に若年寄が集まり、いつものように午前10時ごろから政務が行われた。そして、午後1時近くに仕事が終わり、幕閣が退庁した。同役の太田資愛(掛川藩主)、酒井忠休(出羽松山藩主)らと連れ立って、意知は新番の詰所の前を通りかかったが、そのとき大事件が発生した。

新番とはいわば将軍の身辺警護役で、このとき詰所にいた5人のうち、「べらぼう」で矢本悠馬が演じている佐野政言が飛び出し、「山城守殿、佐野善左衛門にて候、御免!」と叫んで、大刀の鞘を払い、切りかかったのである。

城内で刀を抜くと、喧嘩両成敗で処分されてしまうので、意知はあえて脇差を抜かず、刀の刃を鞘で受けたようだが、肩先に一太刀受ける。周囲の同僚たちは恐れをなして、意知を守らず逃げてしまい、意知も部屋に逃げ込んだが、追ってきた佐野の刀を、今度は両股に受けることになった。

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その後、70歳を超える大目付の松平忠郷が羽交い絞めにし、目付の柳生久通が刀を奪い、佐野はようやく取り押さえられた。しかし、深手を負った意知は、神田橋の田沼家の屋敷に運ばれたが、あらゆる手を尽くしたのも虚しく、2日後に死去した。出血多量が原因だったようだ。

犯人を讃えて意知には厳しかった世間

この刃傷事件に対しては、大目付と目付の取り調べの結果、佐野政言の乱心と認定された。しかし、乱心の場合は情状酌量があって死罪にならないことが多いのに、佐野には切腹が命じられた。

乱心とされたが、佐野は意知を明らかにねらい撃ちし、執拗に追いかけた。その理由はなんだったのか。「べらぼう」でも、佐野が田沼家に系図を提供し、それを意次が捨ててしまう場面があったが、当時も、系図を返してもらえずに恨んだという説があった。昇格できるように意知に依頼し、大金を渡したのに叶わなかったので恨んだ、という見方もあった。

また、このころは権勢を誇る田沼父子に反発する動きは顕在化しており、そうした流れのなかで起きた可能性も取りざたされた。実際、この当時、反田沼のだれかが佐野を背後から操った、という見方は生じていた。