いわば中間管理職だが、なにしろ大名や旗本と将軍とのあいだの連絡役だから、幕府の中枢での仕事で、出世への登竜門とされていた。実際、奏者番を皮切りに、老中まで上り詰める例は少なくなかった。言い換えれば、老中に昇格する大名は、最初に奏者番を務めることが多かった。

それに奏者番も、原則的には大名が就く役職で、そのとき33歳とはいえまだ部屋住みだった意知の就任は、やはり異例だった。

父子が特別に許されていたこと

そして天明3年(1783)11月、意知はついに若年寄に出世する。老中を補佐する若年寄は、幕閣のなかで老中に次ぐ重職で、老中が管轄する以外の旗本や御家人を指揮した(老中は主に朝廷や大名に関する事柄を指揮した)。

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若年寄の定員は原則4人(実際には3~5人)で、少禄の譜代大名(多くは3万石未満)が就くことが多かったが、この時点でも、意知は部屋住みの世子にすぎなかった。35歳という年齢はともかく、大名の当主となる前に若年寄になるのは、やはり、きわめて異例のことだった。

しかも、意知は将軍が起居し、日常的に政務を執る中奥に入ることを特別に許されていた。江戸城の中枢である本丸御殿は、大名が将軍に謁見したりする「表」、将軍が起居する「中奥」、将軍の妻や側室、子女らが暮らす「大奥」に分かれ、中奥に入れる大名はかぎられていた。

父の意次は、明和9年(1772)に老中就任後も、将軍家治の厚い信任を背景に側用人も兼務し、中奥で将軍と直接接し、その意を老中に伝えた。このために権力が膨張することになった。そして意知もまた、まだ家督すら継いでいないのに、父と並ぶ事実上の側用人として将軍の近くに仕え、結果として、父子がそろって権勢をふるうようになったのである。

江戸城内で起きた凶行

意知はこのまま老中への階段を駆け上がる――。当時、だれもが思っただろう。だが、若年寄に抜擢されてわずか半年足らずで、運命は大きく暗転してしまう。