誰袖のしたたかさを知って、意知は自分の正体を明かし、「見事抜け荷の証しを立てられたあかつきには、そなたを落籍いたそう」と覚悟を決めた。
さらには蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)にも、自分が何者かを明かして蝦夷を天領にする計画を話し、「最後に源内殿も口にしておった試みだ。どうだ、そなたもひとつ、仲間に加わらぬか?」と誘いかけた。
「べらぼう」第22回で描かれているのは、天明2年(1782)ごろである。寛延2年(1749)に生まれた田沼意知は蔦重より1歳年長で、この年に数え34歳。それなりの年齢にはなっていたが、田沼家の当主はなおも父の意次で、意知はまだ家督を継いではいなかった。つまり、部屋住みのままだった。
それにもかかわらず、このころの意知は、すでにかなりの力を得ていた。
エリート街道まっしぐら
父の意次が側用人に取り立てられた明和4年(1767)には、19歳にして従五位下大和守に叙任されている。従五位下とは一般に、大名がそこからスタートする位階で、その後、昇進せずに従五位下に留まる例は珍しくなかった。そもそも父の意次が大名になったばかりで、まだ家督も継いでいない部屋住みの息子が大名並みの位階を得るなど、異例のことだった。
その後、天明元年(1781)9月に老中の松平輝高が死去したのち、やはり老中である松平康福の娘を妻にしている。これは父の政界対策だった。松平輝高亡きあと、意次より先任の老中は松平康福だけになった。そこで意次は、その娘を迎えることで、ライバルになりかねない先輩を自派に取り込んだわけだが、意知にとっても、後ろ盾を得ることにつながった。
続いて、同じ天明元年の12月には、奏者番に抜擢されている。これは江戸城内で武家関係の典礼の執行を担当する役職で、具体的には、大名や旗本が年始や五節句などの機会に将軍に謁見する際、大名の姓名を言上したり、進物を披露したり、将軍からの下賜品を渡したりした。