文藝春秋電子版(現・文藝春秋PLUS)で連載されたジャーナリスト・秋山千佳氏による「ルポ男児の性被害」。追加取材を加え、今年7月に『沈黙を破る 「男子の性被害」の告発者たち』として一冊の本にまとまった。連載当時、驚異的なアクセス数を記録した塚原たえさんの記事から一部抜粋してお届けします。

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「和寛は死んでも構わない」

「周りの大人が厄介事に巻き込まれたくなくて手を差し伸べなかったのは、ジャニー喜多川氏の問題と一緒ですよね」

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 2023年9月。日の差さない貸会議室で、ある女性の回想に、私は頷いていた。

 彼女のSNS上のアカウント名は「T.T」。横書きだったので泣いている顔文字だと、私だけでなく他のフォロワーも思っていただろう。

 彼女が匿名発信している内容が、父親から受けた性虐待のことだったからだ。

 取材というリアルの場に現れても、カメラマンがいる間はマスクを外さなかった。2人きりになると、押さえ込んできた過去が噴出するかのようにとめどなく語った。

 同時代を生きる人に起きたとにわかに受け止めきれないほど凄惨な虐待だった。実際、受け止めることを放棄した大人たちによって虐待は黙殺され、裁判を起こすのも今となっては難しいと弁護士からは言われていた。

秋山千佳『沈黙を破る 「男子の性被害」の告発者たち』(文藝春秋)

 窓の外は彼女の暮らす街で、取材が終われば彼女は日常に戻る。今回の記事でも名前を出すのは難しいだろう。そう思いながら念のため確認すると、思わぬ言葉が返ってきた。

「いや、もう実名を出してもいいかなと思っています。父親が何のお咎(とが)めもなく普通のおじいちゃんとして生活し、普通にあの世へ行こうとしていることが許せない。裁判に持ち込める可能性がほぼゼロなのだとしたら、私の実名を出してでも、すべてを知ってもらうほうがいいのではないかという気がしています」

 聞けば、マスクを着けて写真を撮られている間も、被害者である自分がこれ以上人目を忍ぶ必要はないのではないか、という葛藤が募っていたのだという。

「事実を隠して日陰を歩いていると、黙っているしかない自分が惨めになります。自分という人間が存在していない気持ちになるんです。私も、同じように苦しんだ弟もきっと」

 こうして「T.T」は、本名の塚原たえとして、声を上げることになった。