記憶を塗り替えられていた母
母の心配と、伝説の珍プレー「宇野ヘディング事件」。そのイメージの間には大きな隔たりがあるように思える。
「事件」直後のメディアの報じ方に、その謎を解き明かす鍵を見いだせるかもしれない。
「事件」翌日の、1981年8月27日に発行されたスポーツ新聞の記事を探した。東京で発行されたスポーツ新聞のうち、少なくとも6紙は一面で「事件」を取り上げていた。
母にそれらの記事を読んでもらった。すると、母は驚くべき事実を語った。
宇野のエラーがきっかけで中日が負けた、そう母は記憶していたのだ。それは勘違いだったと今回記事を読んで知ったという。実際、結果として試合は2-1で中日が勝っている。
宇野のエラーで負けたと認識していたからこそ、宇野の境遇に一層思いを馳せていたのだ。試合から40年以上経った今、正しい試合結果を認識した母は、「ほっとした」と安堵していた。
現地で観ていた母ですら記憶を塗り替えられた。あのエラーの印象が強すぎたのだろう。テレビで繰り返し放送されたことも、「記憶の塗り替え」を強化したのかもしれない。
母と同様に、中日が負けたと誤解している人は今も多いのではないか。
「毒ガス時代」と「宇野ヘディング事件」
さて、各新聞ではどのように「事件」が語られたのだろうか。
「大爆笑・・・後楽園サッカー場?!」(※1)、「まるでサッカーだもんネ」(※2)、「爆笑珍プレー サッカーじゃないよ宇野クン」(※3)。完全におちょくりの標的だ。
紙面で揶揄され、毒牙を剥かれていたのは宇野だけではなかった。
同日のデイリースポーツ一面は、「原 満塁は並みの人」と大きく見出しを掲げている。その下の記事では、この試合で対星野打率が.176になった巨人・原辰徳を「はっきり言ってカモである」とバッサリ。当時原はルーキーだったにもかかわらずだ。
それだけではない。地下鉄ポスターの「いこいの銀座(シルバーシート)」というコピーになぞらえて、ベテラン星野を「銀座投手」と呼んでいる。
当時の風潮について母は語った。
「当時はこういうのが当たり前みたいな感覚だったのかもしれない。『プロ野球ニュース』のゲスト解説の人たちも結構辛辣だったよね。選手が何かミスしたら、今だとちょっとフォローするようなことがあるじゃない? その頃は人格否定までいかないけど、そういうフォローもないっていうか、ダメならダメってけちょんけちょんに言うみたいな。新聞やテレビも、特にスポーツ選手や芸能人に対して人権って意識があんまりなかった気がするんだよね」
後に特番となった「珍プレー好プレー」は、当初「プロ野球ニュース」内の企画だった。フジテレビ社員として数々のバラエティ番組に携わった後、同番組の編集長を務めた浜口哲夫が、80年代のテレビ番組の「笑いの質」の変化について興味深い証言をしている。
「この頃、僕はテレビ番組における笑いの質が変わり始めていたことを肌で感じていました。つまり、萩本欽一の時代から、ビートたけしの時代に変わり始めていたんです。(中略)僕は欽ちゃんから、“誰かの欠点をあげつらったり、 弱い者いじめをしたりして笑いをとるな“と学びました。でも、時代は確実にブラックギャグ、ビートたけしの毒ガスの時代に変わった。それはたけしさん個人の責任や影響ではなくて、時代がそうなっていたんです」(『オレたちのプロ野球ニュース 野球報道に革命を起こした者たち』著・長谷川晶一/新潮文庫より)
「事件」が起きた1981年は、「ビートたけしのオールナイトニッポン」が開始された年でもある。過激なエピソードトークや番組内での出来事は、リスナーの間で「〇〇事件」と呼ばれていたようだ。
宇野のエラーがいつしか「事件」と呼ばれるようになったのも、その影響があるのかもしれない。
当時母は、こうした「人を小馬鹿にするような風潮が好きではなかった」という。
「だから『宇野さんかわいそう』みたいなことを思ってたのかも。まあ私の性格でそう思ったっていうのはあるけど」
もしあのエラーが1981年ではなく別の時代に起きていたら、現代まで語り継がれることなく、ただのエラーで終わっていたのではないか。
思えば、2018年に放送された「中居正広のプロ野球珍プレー好プレー大賞」。ヤクルト・中村悠平が頭部死球を受けて担架で運ばれた場面が、ナレーションで面白おかしく演出され、SNSで批判を浴びていた。
母の感性は、40年ほど時代を先取りしていたのかもしれない。
《引用元》
※1 スポーツニッポン、1981年8月27日、一面
※2 東京中日スポーツ、同日、一面
※3 日刊スポーツ、同日、一面
「【あの日あの1面 1981年8月27日】『宇野ヘディング』VS『江本舌禍事件』」(日刊スポーツ・プレミアム、2022年)参照
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