※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2025」に届いた原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。
【出場者プロフィール】GGビルダー 広島東洋カープ
広島生まれ カープ初優勝の頃からのファン。現在は監督(広島にはカープの監督が5000人以上存在するといわれている)。40歳からボディビル大会に11年連続出場。56歳で難病ALS発症。リバーサル(進行停止と寛解)を目指して闘病中。
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広島東洋カープが悲願の初優勝を遂げた1975年、私はまだ小学生だった。広島に山陽新幹線が開通した年でもある。授業中でも、窓から「ひかり号」が見えると大歓声が起き、たびたび授業が中断したのを覚えている。
前年まで万年最下位争いの常連だったカープはこの年、シーズン終盤まで熾烈な優勝争いを繰り広げ、ついに歓喜の瞬間を迎えた。
少年の私が特に心惹かれたのが、衣笠祥雄さんだった
初めて広島市民球場に行ったのは、その前年の阪神タイガース戦。父に連れられ、グラウンドの臨場感とスタンドを揺らす大歓声に胸は震え、カープと市民球場の虜になった。
また、その年はミスタージャイアンツ長嶋茂雄の現役最後の年でもあり、神のように崇められているが、衰えの目立つスター選手の存在価値すらよく分かっていなかった。
ここでひとつ問題があった。父は大酒呑みで、試合中も酒をあおり、酔って汚い野次を飛ばした。その姿が恥ずかしくなり、小学生の私は一人でもナイターに通うようになった。
試合前、球場に出入りする選手にサインをもらうのも、今よりずっと気軽な時代だった。古葉監督、山本浩二さん、三村敏之さん、ゲイル・ホプキンス——そして少年の私が特に心惹かれたのが、衣笠祥雄さんだった。
豪快なプレーとは裏腹に、物腰は柔らかく、サインを求めて手を差し出す少年一人ひとりに目を合わせ、誠実に応じてくれた。その姿に、野球の上手さ以上の人としての魅力を感じ、ますます憧れた。
そんな衣笠さんが世界に名を轟かせたのが、連続試合出場の世界記録だ。この頃には私もすっかり大人になっていた。かのメジャーリーガー、ルー・ゲーリッグの記録を塗り替えた瞬間、「鉄人」は「伝説」となった。
ルー・ゲーリッグの名は、ベーブ・ルースと並び、私の記憶に深く刻まれている。偉大な成績、生涯打率.340、そして突然の引退。現役バリバリの中、重篤な難病を発症したため引退を余儀なくされたとのことだった。

