夜が明けて状況がしだいに見えてくる。高知県内では5048戸の家屋が全壊、死傷者は2000人以上にもなる。高知市街地はとくに酷かった。倒壊した家々の瓦礫が道路を埋め尽くし、各所で大規模な火災も発生した。家を失った被災者は約1万5000人、避難所は人があふれて入りきれない。
やなせも報道班の応援で市内の状況を取材してまわった。非常事態で混乱する街で、慣れない報道の仕事には戸惑うことばかり。自分に新聞記者としての資質がないことを思い知らされた。こんな仕事は絶対にやりたくないとも思う。
しかし、配置換えや転勤があるのは会社員の宿命。いつまでも『月刊高知』編集部で挿絵や漫画を描いていられる保証はない。明日には報道の仕事に配属されるか、寂しい僻地の支局に転勤することになるかもしれない。居心地の良い場所に、永遠に居つづけることはできないのだ。
それならば、さっさと見切りをつけたほうがいい。いまなら、まだ間にあう。暢を追いかけて上京しよう。地震の衝撃に背中を押されて、やなせもついに決意した。
小松暢はやなせを待ってくれていた
昭和22年(1947)の年明け早々に上京し、東横線の大倉山駅近くに下宿する暢を訪ねた。彼女は新しい彼氏をつくることもなく、やなせを待っていてくれた。よかった、間にあった。ふたりの恋は成就して同棲を始めたが、それは理想の同棲生活とは程遠いものだった。
戦火で多くの家屋が焼失した東京に、復員兵や外地からの引揚者が続々と流入している。住宅不足が深刻だった。暢は小学生になる家主の息子と一緒に子ども部屋で暮らしていた。やなせが来てからは、子どもと3人で川の字になって寝ることに。なにやら、いきなり子持ちの夫婦になったような気分だった。
ふたりだけで暮らせるアパートを見つけて引っ越したい。そのためにはまとまった金が必要になる。住宅不足で家賃は高騰をつづけ、家賃の1〜2カ月分の礼金を取るという新しい慣習も生まれている。戦前では考えられないことだった。住居費だけではない。あらゆるものが、昨年に上京した時よりも値上がりしていた。1カ月で物価が数倍になるようなハイパーインフレが終戦からずっとつづいている。給与水準も終戦直後と比べて10倍にまで上がっているが、物価の上昇に追いつかない。定職に就いている者でも都会生活は厳しい。