その結果、当時の校長も「工藤先生が着任し、生徒指導専任教諭を担当されてすぐに生徒が良い方向に変化してきたことを感じました(他の多くの教職員も同じ評価でした) 」と述べるなど義男さんの仕事ぶりは上司や同僚だけでなく生徒からも評価されていたことがうかがえるが、家では4月半ばから徐々に元気がなくなり、「仕事と責任を引き受け過ぎたようだ。忙しくてどこから手をつけてよいか分からない」と祥子さんに話すなど、身体的、精神的な負担は限界に近い状態になっていたようだ。しかも、家でも授業準備や資料作成などの仕事を行い、祥子さん曰く「午前3時就寝目標と言っていたこともあった」という。
亡くなる2週間前には広島と京都への修学旅行の引率に行き、夜中まで生徒指導や巡回などを行い、睡眠時間は1日わずか1時間半。修学旅行から帰宅後は体調不良が続き、病院で診てもらおうと医者に行ったが、その病院の待合室で倒れて心肺停止となり、2007年6月25日、くも膜下出血で帰らぬ人となった。
すぐに「過労死だ」とは思わなかった…同僚からの驚きの一言
自分の足で病院に向かう直前まで自宅で普通に会話していたことから「まさか倒れるとは思わなかった」(祥子さん)とあまりに突然の出来事だった。亡くなる前年の健康診断や脳ドックの検査では異常はなく、「なんで亡くなったのか、原因をとにかく知りたいという思いが強かった」と祥子さんは話す。そのような状況のなか、葬儀の際に義男さんの生徒から「自分たちのせいで疲れさせてしまって申し訳ない」と言われたことがショッキングで印象に残ったという。
実は祥子さん自身、義男さんと同じ大学の教育学部出身だが、教育学部では労働法も過労死についても勉強したことはなく、義男さんが倒れるまでニュースでそのようなことを見た記憶もなかった。これまで過労死がどういうものかイメージも特になかったという。そのため、たしかに義男さんが夜中まで働いていたのをみていたものの、すぐに「過労死だ」とは思わなかった。
教え子が言うほど疲れている様子だったのであれば、「仕事が原因かもしれない」とそこから徐々に思い始めた祥子さんの元を義男さんと仲の良かった前任校の先生が訪問し、そこで「過労以外考えられない」「公務災害を申請したらどうか」と告げられ、公務災害(教員を含めた地方公務員のための労働災害制度)を申請することに決めた。祥子さんいわく、「もし元同僚の先生が言ってくれなかったら、公務災害の申請は絶対にできなかった」。
公務災害の申請を決めた祥子さんは、義男さんが亡くなる前の過労状態を示すために、前任校の同僚の先生が中心となって呼びかけた結果、亡くなった際に勤務していた学校の先生も協力してくれ、勤務実態の記録や予定表を入手することができた。当時は、明らかに過労なのだから、元同僚の教員を含めて自分たちで申請書を作れば絶対に認定されるだろう、わざわざ弁護士など専門家に相談するまでもないだろうと考えていたという。毎晩午前2時まで自宅でパソコン作業しているのをみていた祥子さんからすれば、そう思うのは当然だろう。
