近年、教員の労働環境がクローズアップされることが増えてきた。過労死ラインを大幅に超えて働くといった長時間労働にとどまらず、学校内のいじめやモンスターペアレンツの対応といった精神的にも負担の大きい業務などによって、うつ病をはじめとする精神疾患で休職を余儀なくされたり、過労死に追い込まれる事案が頻繁にニュースで報じられるようになった。
今回は、横浜市の公立中学校で保健体育の教員として働き、遺族の計算では1ヶ月に最長で144時間もの時間外労働の結果亡くなった工藤義男さん(当時40)のケースをみながら、真の「教員の働き方改革」について考えたい。(全2回の1回目/後編に続く)
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修学旅行の引率から帰宅直後に倒れる
「神奈川過労死等を考える家族の会」代表の工藤祥子さんが横浜市立中学校の教員であった夫・義男さんを過労死で亡くしたのは2007年。義男さんは当時40歳で、二人の子供はまだ小中学生だった。
義男さんは1990年に横浜市の中学の保健体育の教員として働き始めた。大学時代はアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も1年間、社会人チームでプレーするほど、祥子さんいわく「精神的にも肉体的にも強い人」だった。中学校教員になるという夢を追いかけて倍率約20倍の試験に合格したのち、横浜市の中学校で生徒指導を担った。祥子さんによれば、熱血な先生として、同僚からも、生徒からも慕われていたという。
ただ、仕事そのものはかなり負担の大きいものであった。第3学年の学年主任だけでなく生徒指導専任も兼任し、不登校やいわゆる問題生徒の対応を任されるだけでなく、これまでプレーしたこともなかったサッカーの部活指導の担当となり、朝練から放課後練習まで指導することで、毎朝7時30分から早くても19時まで学校で仕事に追われていたという。さらに、生徒指導の保護者面談は20時から始まることも珍しくなく、生徒指導などで真夜中まで帰宅できないこともしばしばあったという。休日も部活動の指導で埋まり、端的にいって「激務」であった。
2007年4月に新たな中学校に転勤となってからは、引き続き生徒指導専任やサッカー部の顧問などを担当し、慢性的な長時間労働の状態は変わらなかった。赴任直後から、生徒、保護者対応などが頻発し、それらへの対応に義男さんは奔走していた。

