芸術と娯楽の境界線を行き来できた天才

 僕もかねがね「仕事は楽しめなくなったら終わり」と公言してきました。今年六十七歳ですが、いまだに作詞中や企画を練っている最中は高校生の自分に返るんですよね。朝、目覚めた時、なんだかふと「いやぁ、すごく長い夢を見たな。高校二年の夏休みから始まって、俺が作詞家になって……」と思うこともあります。だって、これは謙遜でもなんでもなく、僕には何もないですから。親が出版社やレコード会社、放送局に勤めていたわけでもない。親戚にミュージシャンや俳優がいたわけでもない。高校二年生の夏休み、手書きの台本をラジオ局に送ったのがこの業界に入ったきっかけですが、そもそもなんで台本を書いたのかもわからない。夢のように摑みどころのない人生なんです。

 だから、菊池寛と、彼の周りにいたたくさんの本物の文士たちの物語に触れると、やっぱり(ひる)むところはあります。特に、経営しながら雑誌の企画考えて、作家の地位向上を目指してナントカ協会も立ち上げて、それでもなお書くエネルギーをマグマのように放出し続けた菊池寛はやっぱりはるか遠い存在、とんでもない化け物です。

菊池寛。芥川賞・直木賞の制定から文芸家協会の設立、映画会社「大映」社長としての業務まで、その仕事は実に多岐にわたった

 でもひとつだけ。「あ、これ面白いかも!」とひらめいた時に覚える、しびれるような興奮。それだけは、僕にも「わかるなぁ」と思えました。漫画でいうなら、電球が頭のうえにポンッと浮かぶ、あの瞬間。何十年仕事しても、あの瞬間を超える悦びは知りません。

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 菊池寛が創刊してちょうど百年たったいま、奇しくも僕は、雑誌「文藝春秋」で「秋元康ロングインタビュー」という連載をしていますが、あれも、「自分が自分にインタビューしたら面白いかも」と思いついちゃったからやってるだけ。毎回書くのは本当に大変なんだけど(笑)。とにかく予定調和を壊したい、誰も見たことがないアイディアで読者を、観客を沸かせたい。それこそが僕にとっての快楽であり、病であり、菊池寛にとってもそれは同じだったと思う。

 身近に芥川龍之介や川端康成がいて、天才というものを誰より知りながらなお、お茶の間を見続けることができた男。菊池寛はきっと、大衆の貪欲さが時のスターを生むということもわかっていたのでしょう。

 僕も、スターが誕生する瞬間には何度か立ち会ってきました。菊池寛じゃないけれど、失敗すら自らを輝かせる糧とする逸材というのが世の中にはいて、彼、彼女らは、大衆の((ねつ)を取り込んで、スターダムにのし上がっていく。

 芸能だって文学だって、大衆の手に委ねられたら本望でしょう。菊池寛は、芸術と娯楽、そして作家と経営者の境界線を自由に行き来できた天才なんですよ。

(談)

文豪、社長になる (文春文庫 か 48-9)

門井 慶喜

文藝春秋

2025年7月8日 発売

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