「死にたくなんてなかった。今すぐ、命を返してほしい!」――取材時、現場に響いたのは、まるで犠牲者の無念が語りかけてくるような声だった。

 1985年8月12日、乗客乗員520人が犠牲となった日本航空123便の墜落事故。世界で活躍する有名歌手や、女優が亡くなったことでも知られるこの惨事を、報道カメラマンはどう見つめ、どんな記憶を刻んだのか――。実際に事故現場を取材した橋本昇氏の最後の著書『追想の現場』(鉄人社/高木瑞穂編)よりダイジェスト版をお届けする。

谷底へ落ち、グシャグシャになったジャンボ機のエンジン。触れると冷たくささくれた感触があった ©橋本昇

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520人が死亡…40年前に起きた「世界最大の飛行機事故」

 墜落現場を目指す道のりは過酷だった。狭い山道をタイヤがパンクするほどの悪路を進み、最終的には徒歩で急峻な山を登らなければならない。背負ったリュックと2台のカメラが肩に食い込み、疲労と焦りが交錯する中での山行だった。

 道中では様々な光景に遭遇した。手ぶらでスーツ姿のまま山に入り、水を求める新聞記者。道端に放置された放送局名入りのビデオカメラ。そして何より衝撃的だったのは、谷底に落ちていたジャンボ機のエンジン。不可解でシュールな光景に、この事故の規模の大きさを実感した。

 現場に到着すると、そこは地獄絵図だった。尾根に沿って生えていた木々のほとんどがなぎ倒され、"JAL"とペイントされたジャンボ機の主翼の片方が横たわっていた。

「巨体が空を飛ぶということは大変なことなんだ」

 橋本は機体の破片や乗客の荷物、遺体が散乱する光景を前に恐怖を感じた。400トンのジャンボ機は墜落ではなく、尾根に激突していた。航空燃料のケロシンが爆発的に燃え広がり、いたるところから煙が立ち昇り、言葉では表現できない臭いが辺りを包んでいた。

 足元には男性の財布が燃え残っていた。中には家族写真があり、公園で撮影された妻と二人の子供の笑顔が収められていた。橋本は遺族のことを考え、写真を複写することを控え、警察官に渡した。

 現場では警察官が遺体に手を合わせ、自衛隊員が無表情で手足を拾い集め、消防隊員が立ち昇る炎に土をかけていた。しかし過酷な現場作業に耐えられず、座り込んで呆然とする捜索隊員もいた。

「少し疲れちゃって」

 夕陽が山々を赤く染め、やがて御巣鷹山の尾根は深い闇に包まれた。現場に残った隊員や取材陣は、遺体を囲むように座り込み、時折暗闇に燃え上がる炎を黙って見つめていた。

 空腹を感じた橋本が弁当を取り出そうとしたとき、足元に人間の足が落ちているのに気づいた。踝から膝関節の上までが骨だけになり、足首は風呂上がりのようにふやけて生々しかった。

「死にたくなかった!」

 最も心に残ったのは、毛布に包まれた遺体の親指に塗られた濃いパールピンクのマニュキュア。木の隙間から射し込む光に浮かび上がったその鮮やかな色彩は、モノトーンと化した現場で異彩を放っていた。

「どうして私たちが犠牲にならなければならなかったの……どうして?」

 マニュキュアを塗った女性の無念が橋本の心に語りかけてきた。一瞬にして命を奪われた犠牲者の思いが、「死にたくなかった。いま直ぐ私の命を返してください!」と訴えかけてくるようだった。

 日航機墜落事故から何十年経った今も、橋本の心に刻まれたその無念の声は消えることがない。520人の命が奪われた日本の航空史上最悪の事故現場で、橋本が目にした光景は、命の儚さと、突然奪われた未来への哀しみを今も雄弁に物語っている。

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