それなりに仕事をしていたようではある。しかし、この会社に長居する気はない。イラストやカットを描く副業をやるようになり、雑誌や新聞が募集する懸賞漫画にもさかんに応募していた。それで腕を磨きながら、漫画家として独立するための資金を貯める。準備が整えばすぐに辞表を提出するつもりだった。
そういった考えは言葉や態度にも出てしまう。会社の仕事はそっちのけで副業の漫画を描く。上司が見ていようがまったく気にしない。私用電話をかけまくり、しょっちゅう席を離れていなくなる。本館内の劇場で演劇を観たり、近くの喫茶店で息抜きしている姿がよく目撃された。
「生意気なヤツだ」
と、反感を覚える者も少なくなかったようだが、気にしない。
「社畜のお前らとは違うのだよ。こんなところすぐ辞めて、ぼくはビッグになるんだ」という、感じだろうか。反抗的な態度を取っていることは自覚している。不良を気取っていた10代の頃と同じで、悪い癖が再発している。
学校や会社など、集団の中にいると地味で目立たない存在になってしまう。それが嫌でつい虚勢を張って不良を気取ったり、空気が読めない自己主張をしたり。と、少し“面倒臭いヤツ”になっていたようだ。
30歳間近になっても、漫画家にはなっていなかった
この頃もまだ、晩年のやなせとは雰囲気が違う。
もうすぐ30歳になろうというのに、いまだプロの漫画家になれずにいる。自分よりも若い漫画家たちの活躍に、妬みや焦りがあったのかもしれない。ちょっと心がすさんでいたようだった。
サラリーマンなんかやっている場合じゃない。本気で漫画に取り組まねば、先行する連中との差がさらに開いてしまう。そよ風が吹いて来るのを待って、のんびりやって行こうという自分の選んだ道なのだが……それが、本当に正しかったのか。悩む。
医学部在学中の手塚治虫が鮮烈なデビューを飾る
やなせの上京とほぼ同時期、昭和22年(1947)1月には手塚治虫の『新宝島』が刊行された。