帝国製麻ビルの先には、屋上に尖塔がそびえる三越本店が見えた。この眺めもまた変わらない。それどころか、周辺には戦後の焼け跡に建てられた粗末な木造建築が増え、ルネッサンス様式の建造物が戦前よりもいっそう巨大で立派に映る。
日本橋の三越も戦後はボロボロだったが…
しかし、館内に一歩足を踏み入れてがっかりさせられた。物資不足で建物のメンテナンスができず、壁の壊れた箇所はベニヤ板や切れ端の木材で塞いだ応急処置でごまかしている。また、どこの売り場もガラスケースの中はすかすかで空き場所だらけ。食品売り場には乾物や漬物しかなく、まるで下町の商店のような有様だった。これが日本を代表する百貨店の現状、終戦直後からの極限状態がまだつづいていることを思い知らされる。
陳列できる商品がなく、スペースが余っている。上の階は事務所として使われ、やなせが勤務する宣伝部もその一角にあった。
「商品がないのに、なにを宣伝するのだろう。仕事なんてあるのかな?」
殺風景な売り場を見てそう思ったのだが、企業が無駄な人員を雇うはずがない。
この頃から日本は凄すさまじい勢いで復興してゆく。この年には食料事情がしだいに良くなり、寒くなっても餓死する者はいなくなった。飢える心配がなくなれば、人々はお洒落(しゃれ)にも関心を向けるようになる。綿花の輸入が再開して大量の原料が輸入され、色鮮やかな布地が市場に出回りだすと女性たちの間では洋裁がブームに。街にはカラフルな洋服姿が増えて、戦時中や終戦直後にはよく見られたモンペ姿が少数派になっている。
包装紙「Mitsukoshi」のロゴを書く
年が明けた頃には、三越の売り場もしだいに商品が充実してきた。催事がさかんにおこなわれるようになり、宣伝部もポスターやパンフレットなどの制作で活気づいてくる。包装紙が刷新され(編集部註:画家・猪熊弦一郎の図案)、その仕事にはやなせも関わった。包装紙の筆記体「Mitsukoshi」のロゴは彼の手によって描かれたものだ。
