終戦直後から昭和30年代頃まで“赤本”と呼ばれる読み切りの漫画本が、関西を中心に数多く出版されている。『新宝島』の版元も赤本を手がける大阪の零細な出版社だった。その読者対象は主に小学生で、通常の書籍販売ルートを通さずに駄菓子屋やオモチャ屋などの店に並べて売られていた。子どもの小遣いで買える安価な本だからコストはかけられない。赤みを帯びた安っぽいペラペラの紙が使われ、それが語源になったといわれている。
大手の出版社から発行される雑誌や書籍と比べて、赤本の発行部数はかなり少ない。普通は世間の話題にもならないのだが『新宝島』は違った。発売と同時に凄まじい勢いで売れ、版を重ねて40万部を刷ったという。赤本漫画としては異例、それどころか、当時の出版界でも驚異的な数字だった。
これで手塚の名声は一気に高まり、東京の大手出版社からも依頼が殺到するようになる。当時、彼はまだ大阪大学附属医学専門部で学ぶ19歳の学生だった。同じセミプロ、しかも、やなせとは9歳年齢差がある若者だ。それが漫画界の話題をさらっているのだから、当然、意識しただろう。自分の状況がもどかしく感じられる。
終戦直後からずっと出版ブームがつづいている。戦時下では言論統制にくわえて紙の供給が滞って出版社は新刊本が出版できず、読者も読みたい本が読めなかった。双方にストレスが溜っていた。終戦を契機にそれが爆発したのだろう。焼け野原の街で空腹をかかえながら、人々は本や雑誌をむさぼり読むようになる。
戦前は203社だった出版社の数が、昭和22年(1947)には3446社に増えている。漫画雑誌の再刊や新創刊が相次ぎ、描き手の需要が高まっていた。副業漫画家のやなせにも雑誌のカットなどの依頼が増えて、給料よりもそちらの稼ぎが多くなっている。
「もう会社辞めても大丈夫、かな?」
自分も本職の漫画家になろう。ついに重い腰をあげることにした。汽車に乗り遅れるな、いま決断しなければ、本当に置いてきぼりなってしまう、と。
作家
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。
