誰もがマジョリティにもなればマイノリティにもなりえる
私が思い描く多元的な社会のイメージは、1%の少数派が100個集まった世界線です。
世の中を「多数派・少数派」というフィルターばかりでとらえていると、しばしば本質を見誤って無用な分断が生まれます。あらためて認識すべきは、属人的に固定されたマジョリティとマイノリティがいるのではなく、私たちは政治イシューごとに多数派の立場にもなれば少数派の立場にもなり得る、ということです。
例えば、ある人は雇用の領域なら、働き方改革の促進に賛成のマジョリティかもしれませんし、福祉の領域では障害を抱えた子どもへの支援策拡充にひときわ深い関心をもつマイノリティかもしれません。あるいは国の一般歳出における社会保障関係費の比率の高さを声高に批判していた人でも、家族が希少疾患にかかったら先進医療への助成が充実した包摂的な医療政策を強く望むようになるかもしれません。人は自分の状況や人生のステージのなかで、マジョリティにもなればマイノリティにもなります。
数の論理ですべての意思決定を行ったり、それを民主主義における正義と思い込んだりするべきではありません。意思決定の場で「私が少数の1%の人」になったときにも社会に影響を与えられる状態をつくることが、これからの民主主義の目指すべき姿です。
誰もが1%の側になったときにも、その声を他の99%に届けられる社会―それこそが私が心から実現したい「誰も取り残さない未来」です。
多元的な社会という未来への第一歩は、自分自身がマジョリティでもありマイノリティでもあることを受け入れること、自らのなかにある多様な価値観に気づくこと。そこから始まるのです。
