保阪 幼年学校出身者が同期にいないことについて、今村は「それでも大将が5人出ているんだぞ」と言っていました。5人も大将を出しているのだから、成績が悪かったわけではありません。にもかかわらず、陸軍省や参謀本部の中心にいた軍人はほとんどいない。昭和の初めの頃まで、陸大合格者のうち一般中学卒業者はわずか1割で、9割は幼年学校出身者だったようですが、学閥が蔓延(はびこ)っていたのは間違いなさそうですね。
川田 幼年学校出身者を優遇して、中学組はたとえ陸大を出ても主流にはなれなかった。
保阪 ここにも陸軍の問題が潜んでいると思います。エリート同士、仲間内で固まってしまい、よそ者を受け入れない。
新浪 もちろん幼年学校出身者も組織内で使っていいのですが、旧制中学出身者も、積極的に受け入れていかないとだめですよね。ダイバーシティの重要性は、今では感覚的に皆がわかっていますが、当時は理解するのが難しかったのでしょう。異なるものを受け入れる力がない組織は、いずれ滅びます。今年、制服組トップの統合幕僚長に、初めて防衛大学校卒以外の方が就かれましたが、そういったことは、ぜひ進めて頂きたい。
目的を徹底させられるリーダー
楠木 太平洋戦争末期に硫黄島の戦いで米軍相手に奮戦し、中将から最終的に大将となった栗林忠道も旧制中学出身者でした。
保阪 長野中学を卒業後、陸軍士官学校に入学。同期には硫黄島の戦いで共に戦った“歩兵戦の神”と呼ばれる千田貞季(せんださだすえ)もいました。千田も中学出身です。栗林は、陸大は2番で卒業、恩賜の軍刀組です。本来は中央で活躍してもおかしくない。
ただ、騎兵畑だったことが災いした。当時は第一次世界大戦で戦車が登場して、騎兵の役割が終わりを告げつつある時代でした。旧制中学出身ということもあり、引き上げてくれる上官もいなかったのかもしれません。
川田 1927年からアメリカに赴任していますが、同じころ、国内にいたエリートたちは一夕会などの勉強会に集まっていた。
保阪 その時期に日本にいなかった栗林は、陸軍の中心と距離があったのでしょうね。
山下 1941年の香港攻略戦の時に参謀長をしていたのですが、その時に独断専行事案があったようです。それで支那派遣軍総参謀長の後宮淳に激怒されて、飛ばされる事件もあったと聞きました。
保阪 そうでしたか。1943年には留守近衛第二師団長でした。その後、東部軍司令部付に転じ、戦略的価値もそれほど高くない硫黄島に行かされたのも不思議な話です。留守近衛師団は、宮城を守る重要な役割がある。宮城で失火事件があり、その責任を問われたとも言われますが、真相は良く分かりません。
※本記事の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(大座談会 昭和陸軍に見る日本型エリート)。



