優秀な人材が国を誤るのはなぜなのか。 昭和陸軍のエリートたちの人物像・行動様式を分析することで、いつの時代も変わらぬ「日本型エリート」の“失敗の本質”を探る(全2回の2回目/前編から続く)。
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硫黄島の戦いで米軍相手に奮戦
楠木 硫黄島の戦いでは、2万人余りの兵を率いて、約6万人の米兵を相手に36日間も持ちこたえます。玉砕戦法を禁じて、島中に地下壕を掘って、徹底的な持久作戦を展開した。生きて帰るのが難しいという極限下で、目標をはっきりと定めて、それに対して最適な手段を、本部からの指示がどうであろうと取っていた。そこがリーダーとして相応しい振る舞いだったと思います。
新浪 気合と根性だけでなく、何が必要なのかを考え、実践していった。旧制中学時代に、異なる意見も受け入れる教育を受けていたこともあり、部下と意思疎通をして、納得させることができた。硫黄の匂いが充満し、追い詰められた苦しい状況でも、最後まで人格者であった。だから彼は、部下たちから、一目見た時に「この人ならついていける」と思える人物だったのではないでしょうか。
保阪 栗林は戦闘開始に先立って、戦い方の方針をはっきりさせるため、「我等は全力を奮って本島を守り抜かん」から始まる全6項目を記した「敢闘の誓」をガリ版刷りにして配っています。大本営からは、敵部隊を水際で叩く水際作戦を指導されましたが、それを放棄しました。サイパン、テニヤン、グアムの例から、水際作戦が有効ではないと判断したのです。戦車も埋めて砲台にするなど、反対もあったようですが、全責任を負って徹底させた。
山下 私が幹部学校で受けた戦史教育では、年嵩の将校が多かったことも、持ちこたえられた理由の一つだと教えられました。栗林さんは若い将校たちを陸大の受験があるからと、潜水艦で本土に返した。残っているベテラン将校は、若い兵が玉砕するために突撃すると言った時、「1日でも長く耐え、家族のいる東京に行かせないようにするのが大事なのだ」と言って止めたそうです。
新浪 栗林さんはアメリカ留学を経験し、敵を知っていたことも大きかったでしょう。さらに自ら硫黄島をくまなく歩いて、自分の目で確認し、地形を頭の中に叩き込んで情報を得ていた。そして、現場に指示した。アメリカ軍は驚いたと思います。日本はてっきり白兵戦をやるものだと考えていたから。戦後、アメリカ海兵隊史には「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と、記されているほどです。



