ノモンハン事件やインパール作戦で活躍した“一番尊敬できる”指揮官

山下 私が第一線で戦った部隊の指揮官で一番尊敬できるのは、ノモンハン事件やインパール作戦で活躍した宮崎繁三郎です。

保阪 “不敗の名将”なんて呼ばれていますね。実際には流石に不敗とまでは言えないけれど、劣勢続きの陸軍の中で、結果をしっかりと残している。

山下 彼も幼年学校出身ではなく、岐阜中学から陸士に入っていますね。陸士では栗林さんと同期でもありました。

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楠木 国境策定を優位に進めるべく連隊長として参加したノモンハン事件では、ソ連軍部隊を撃退しています。流石だなと思うのが、停戦時の行動です。連隊の中から石工の経験のある者を集めて、石に連隊名と日時を彫らせて、砂利の中に埋めていった。それが日本軍の占領した証拠となり、彼の部隊が進出したところだけ国境線がはっきり確定したという逸話がある。

保阪 悪名高き牟田口中将の下でのインパール作戦では、約3000人の兵を率いて英軍を退け、インパール北方のコヒマを占領しました。大本営はコヒマ陥落に大喜び、参謀総長以下が感状も送ったほど。宮崎支隊は部下の兵隊の軍紀もしっかりしていたので、現地でも評判は良かったそうです。

牟田口廉也 ©文藝春秋

山下 栗林は硫黄島で自分がトップとして考えて動けばいい。でも歩兵団長の宮崎はそうはいかなかった。上に師団長がいて、さらにその上に軍司令官として牟田口がいる。駒として動くしかない中で、任務をしっかり全うした。また撤収するときには、自分は最後尾から進み、負傷者も置いていくなと言っている。素晴らしい奮闘ですよ、これは。

楠木 彼が普段から心に留めている言葉に「不断の努力、要点の把握」があったそうです。不断の努力を心掛けていた人は多いと思いますが、「要点の把握」は混乱する戦場では特に重要。非常に有能な方だと思います。

保阪 ただ、これだけ立派な戦績がありながらも、相応に遇されなかった。やはり幼年学校出身ではなかったし、陸大でも卒業時の成績は64人中29番。これではエリートたちの牙城を崩すことが難しい。

川田 陸軍内の派閥にも属していなかったようです。

保阪 それでいて優秀なので、駒として便利使いされてしまったのでしょうね。陸軍省や参謀本部にはほとんど来ず、外回りの辛い役ばかりを任されてしまった。戦後は下北沢で岐阜屋という陶器小売店を開き、静かに暮らしていました。尊敬できる軍人ですよね。

山下 亡くなる間際、部下が来た時に「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか」とおっしゃっていたそうです。意識がインパール作戦時のコヒマに飛んでいた。実は私の父も亡くなる際、大陸の福建省に意識が飛んでいました。

楠木 戦場での体験は、それだけ強烈な経験と記憶を、残すのでしょうね。

※本記事の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(大座談会 昭和陸軍に見る日本型エリート)。

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