「べらぼう」では蔦重が、吉原を改善したいという決意をたびたび表明してきた。だが、実際には、吉原では蔦重の時代以降、上に記した理由で女郎の質がかなり低下し、高級な遊里であったはずの吉原が、岡場所のような存在になっていったといえる。
こうして下層の女郎が急増したことは、吉原の火災の増加とも関係があると思われる。
吉原で放火事件が急増したワケ
吉原が日本橋人形町のあたりにあった元吉原から、浅草の新吉原に移ったのは、明暦3年(1657)のこと。以後、延宝4年(1676)から慶応2年(1866)までの190年間に、22回も全焼している。注目すべきは、そのうち18回は明和5年(1768)から慶応2年までの100年足らずの間に発生した、という史実である。
なかでも、文化文政時代(1804~30)から慶応2年までの10回の火事は、主犯についての記録が残されており、いずれも遊女の付け火とされている。この時期は吉原の女郎の数が、それも下層の女郎の数が激増した時期とピタリと重なる。
たとえば――。文化2年(1805)6月9日には吉原京町二丁目で、花乃井という女郎が事件を起こした。新参の女郎で奉公に苦労し、仕事も休みがちになっていた花乃井は、若松という女郎に放火してくれと頼んだ。若松は引き受けたものの、花乃井が火をつける木を持参したとき、うっかり寝入ってしまっていた。結果、放火には至らず、若松が百日押込の処分を受けた。
しかし、同年、同じ妓楼でまた事件が起きた。いち乃という若い女郎は体が痛いのに働かされ、放火におよんだ。ゴミ箱のなかの木綿に火をつけたもので、普通なら死罪になるところが、15歳以下だったので遠島になった。この事件にも花乃井がからんでいたらしい。
こんな事件が無数に発生する場所に、吉原はなっていった。その直接の契機は天明の大飢饉だったといえる。蔦重の夢は叶わなかったのである。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
