そして飢饉が起きると、生活に窮した貧農らが、少しでも食べられる場所に移動しようとして「無宿」になる例が激増した。そうして江戸などの都市部に流れ着き、底辺の娼婦である夜鷹を含め、私娼になるケースは少なくなかった。
田沼時代の終焉とともに起きたこと
吉原はいうまでもなく、江戸で唯一公認された遊里だったが、現実には、遊女は江戸の各所にいた。吉原以外の非公認の遊里は岡場所と呼ばれ、有名なのは江戸四宿と呼ばれた品川、内藤新宿、板橋、千住の宿場だった。そこには飯盛女と呼ばれた私娼がいて、とくに飯盛女に関しては、宿場を活性化する観点から、幕府は事実上黙認していた。
とくに風紀の取り締まりが厳しくなかった田沼意次の施政下では、飯盛女にせよ、夜鷹にせよ、私娼の存在は放任状態になっていた。そこに天明の大飢饉が発生したので、田沼時代に私娼の数はかなり増えたようだ。
ところが、田沼意知が佐野政言に斬殺されたのち、とりわけ意次の失脚後、老中になった松平定信による寛政の改革がはじまると、江戸に80カ所余りあったとされる岡場所のうち、55カ所が取り潰しになった。仕事を失った女郎たちは吉原に流れるケースが多く、その後、吉原の女郎の数は激増していく。
1987年に雑誌『朝日ジャーナル』に掲載された記事「吉原の仮宅」(宮本由紀子)によれば、天明7年(1787)に2597人だった吉原の女郎の数は、享和3年(1803)には5473人に増えている。16年で2倍以上に膨れ上がったのである。
女郎の質がかなり低下
しかも、天明7年には2597人のうち、下層の女郎は991人にすぎなかったのが、享和3年には4005人にまで増えている。その理由は以下のように説明できる。
天明の大飢饉で疲弊した農村から江戸にやってきて、遊女になる女性が増えた。女衒を介して吉原や岡場所に売られたケースもあれば、無宿となって江戸に流れ着き、食べるために私娼になったケースもあった。だが、公認の遊里である吉原以外の岡場所の多くが、寛政の改革の取り締まりで取り潰されたため、私娼の多くは吉原に流れ込むことになった。