この村には80軒ほどあるが、(農耕や運搬用の)馬の肉を食べなかったのは、我が家を入れて7~8軒もない。大雪の上に死んだ馬を置いておくと、女が大勢集まって菜包丁や魚包丁で肉のいい部分を争って切り取り、血が流れる腕にかかえて帰っていく。
路上に転がる遺体を犬が顔を突っ込んで食い歩き、血に染まった顔で吠えるのが恐ろしい。今年もこの凶作を上回るようなことになれば、蕨や葛の根も堀り尽くしたので、あざみの葉や女郎花を食べるしかない――。
また、同時期の仙台藩の様子を記した仙台藩士の源意成の『飢饉禄』には、次のように記されている。天明3年(1783)10月から餓死者がだんだん出るようになり、翌4年閏正月までに多く死亡し、4月、5月には5~6歳から12~13歳くらいの子供が倒れて死ぬ事例も目立つようになり、領内で14万~15万人が死んだ。また、天明4年3月中旬からは疫病が流行し、餓死者と合わせると、領内で30万人が死んだ――。
杉田玄白の『後見草』には、腹が減って半狂乱になった大人が子供を殺して食べた、という記述さえある。
喜多川歌麿も「無宿」だった
飢饉によって農村が疲弊したときほど女衒、すなわち農漁村を歩き回って女児を買い漁り、必要とする場所に売る仲介者が暗躍したといわれる。生活に窮して口減らしをしたい親から幼い娘を預かって、吉原などの妓楼に売り飛ばしたのである。
女衒を介さない事例もあった。その際、「無宿」という言葉がカギになる。「べらぼう」でいえば、染谷将太が演じる喜多川歌麿が当初、無宿として描かれていた。無宿とは、江戸時代の戸籍簿である人別帳に記載がない者で、「べらぼう」では蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、逃亡した別の人物の人別を歌麿にあたえ、彼を人別帳に登録することに成功していた。
江戸時代、公家、武家、その従者、15歳以下は人別帳の対象外だったので、人別帳とはつまり成人した平民の戸籍簿だった。幕府はこれを当初、キリシタン取り締まりのために利用し、のちには人口調査のために使った。