「死の街に電車を走らせ、乗る人はいるのか?」

 広島電鉄の従業員も1241人中、185人が命を落とした。特に、屋外作業中であった人々は瞬時に熱戦・爆風の被害を受けており、爆心地近くで市内中心地付近の紙屋町で電線・電柱の整備作業中であった「架線係」は全員死亡。紙屋町・的場町・土橋などの地上で線路分岐を手動操作していた「ポイントマン」も、多くの人々が落命した。

 運行を担う設備も、市内の送電を担っていた櫓下変電所は一瞬で倒壊し、中にいた人々は即死。本社の前にあった千田町変電所も屋根が落ち、整流器にガラスが刺さって使用不能となった。

櫓下変電所が倒壊し、市内線の復旧は困難をきわめた(撮影:米国戦略爆撃調査団、提供:米国国立公文書館)

 本社や車庫では火災こそ発生しなかったものの、123両の車両のうち全焼22両、半焼3両、大破23両、小中破が60両。もともと故障していた12両を除くと、無傷で動けた車両はたったの3両しかなかったという。

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千田町変電所も屋根が壊れ、鉄骨が変形した(撮影:米国戦略爆撃調査団、提供:米国国立公文書館)

 路面電車は車両・設備・人材・すべてを徹底的に破壊され、焼き尽くされた広島の街並みには、歩く人々すらほとんどいない。松浦課長もあたりを見渡して「路面電車はもうダメだな、と思った」と第一印象を手記に記しており、会社幹部ですら「瓦礫の街に電車を走らせることはできるのか」「死の街に電車を走らせ、乗る人々があるだろうか?」と議論するような状況であったと手記に残している。

 ところが、広島電鉄はあっという間に乗客を乗せ、ふたたび走り出している。

「電車が走れば、勇気が湧く」呼びかけに応じた人々がかいた汗

 無事に助かったと思われた人々も放射線障害(原爆症)によって、続々と命を落としていく中、生き残った社員たちは伊藤信之常務(当時)の「焼け野原に電車が走れば、みんな勇気も湧き、喜んでくれるに違いない」との呼びかけに応じて、手分けして線路上を歩いて線路・車両・橋の状態を確認していった。

 当時は出征した男性運転士に代わって、広島電鉄が創設した「広島電鉄家政女学校」の生徒が電車の運転・車掌業務を担っており、彼女たちも8月の炎天下をくまなく歩きまわった。こうした活動により「電柱が842本中393本が倒壊」を中心に、克明な被災状況を把握できた。