被爆当日に復旧できた理由

 電車は、動かすための電気がないと走れない。その点、広島電鉄は市内中心部を走る路面電車(軌道線)以外に郊外を走る宮島線(己斐(現:広電西広島)~宮島(現:広電宮島口)の16.1キロ)があり、その電気供給を担う廿日市変電所が爆心地から西に15キロほど離れていた。

己斐停留所は、現在広電西広島停留所へと改名している(筆者撮影)

 松浦課長の8月6日の手記を見ると「廿日市変(変電所) 無事 宮島線被害軽微」と記されており、さらに中田さんによると、当時は己斐に宮島線の車庫があり、そこや宮島に架線柱などのメンテンナンス資材を疎開させていたことも功を奏した。復旧作業にすぐ当たれた。また、宮島線は爆心地から比較的遠いこと、さらに市内の路面電車と架線の構造が異なることなどもあって、当日の昼過ぎには一部区間(草津~宮島)で、翌7日には己斐まで無賃での全線復旧を果たす。

 しかし、電気は遠い距離に送るほどロスが生じ、まとまった量の送電はできない。そのため、宮島線以外の市内線で即座に復旧できたのは、できるだけ宮島線寄りの己斐~西天満町(現:天満町)に限られた。同区間は、一般的な路面電車とは異なり「専用軌道(新設軌道)」と呼ばれる構造で被害が軽微だったことも背景にある。この区間は8日に試運転を行い、9日の午後に復旧を果たしている。

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早期に復旧できた区間は、専用軌道と呼ばれる構造だったことが功を奏した。いわゆる路面電車と異なり、架線柱が丈夫だったのだ 出典:中田裕一『だから路面電車は生き返った』(南々社)より

広島と長崎、路面電車の復旧に差が生まれた理由

 広島電鉄が被爆当日から復旧できた一方、同じ原爆被害を受けた長崎の路面電車では一部区間で復旧したのが被爆3カ月後の1945年11月。なぜここまでの違いが生まれたのだろうか。

長崎電気軌道の車両。蛍茶屋停留所にて(筆者撮影)

 まず長崎電気軌道は、郊外路線のある広島と違って、市街地の軌道線しかなく、現在の「長崎スタジアムシティ」北側にあった変電所が焼き尽くされてしまった。かつ長崎は電車運行の心臓部であった大橋営業所・車庫が爆心地から約500メートルという至近距離にあり、多くの人々がここで落命する被害を受けている。

 携わる人々が路面電車を復旧させるために汗を流したことに、もちろん変わりはないだろう。しかし、変電所の位置や爆心地と車庫・本社の距離で、電車復旧に大きく違いが出てしまった。

大半の区間は未復旧……2度の台風被害も乗り越え、どう復旧したのか?

 被爆からわずかの期間で広島電鉄が復旧したことは広島市民をかなり驚かせたようだ。

 広島電鉄が発行した『広島電鉄開業80創立50年史』には、一番電車を運転した運転士さん・車掌さんの「みんな『電車が動くじゃないか』とたまげて見てくれたんがね」「ただで乗っても『料金を』とか言わりゃせん。銭金じゃなかったから」など、当時を回想するコメントが残っている。

 しかし、一部で走り出したとはいえ、市内中心地を走る大半の区間の復旧はこれから。原爆による甚大な被害に加え、秋口にかけて2度の大型台風にも襲われながら、広島電鉄は様々な人々に助けられつつ、復活への道を歩んでいく。

次の記事に続く 原爆から無傷で生き残った車両は「わずか3つ」…広島電鉄の“奇跡的スピード復旧”を支えた「名もなき人々」とは

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