1945年8月6日、広島の街を原子爆弾(原爆)の猛威が襲った。熱線、爆風、火災だけでなく後遺症も含め、同年末までに14万人ほどが亡くなったとされる。被害は人命だけではない。市民の足として機能していた広島電鉄も、変電所の大半が甚大な被害を受け、車両の多くが大破。無傷だった車両は、当時保有していた123両のうち故障していたものを除くとわずか3両だった。

 ところが、被爆当日には宮島線の一部、その後もわずか3日で市内線の一部が復旧している。その後、枕崎台風・阿久根台風という2度の大型台風にも襲われながら、大動脈でもある広島駅までの路線が単線ながら10月に復旧した。いったいなぜ、広島電鉄はこれほどまでのスピード復旧を果たせたのか。その裏側には“名もなき人々”の尽力があった。

 当時、広島電鉄で電気課長を務めていた松浦明孝氏の手記と、その手記をまとめた書籍『だから路面電車は生き返った』(南々社)の著者で広島電鉄・元運転士の中田裕一さんへの取材、広島電鉄の社史などを基に当時の様子を振り返る。(全2回の2回目/最初から読む

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被爆した電車(撮影:岸田貢宜、提供:岸田哲平)

「わしらの手で広島を復興させよう!」

 先んじて全線復旧した宮島線に続き、8月9日には市内線のうち己斐(現:広電西広島)~西天満町(現:天満町)区間で動き出した広島電鉄だったが、その先の復旧にはいくつもの課題があった。例えば、変電所だ。

 廿日市変電所が無事だったことで宮島線は早期復旧を果たせたものの、市内まで送電するには心もとない。より広範囲の復旧に必要な千田町変電所のために、陸軍の船舶司令部「暁部隊」が駆け付け、崩落した屋根をテントで修復、瓦礫を取り除いた。

 あとは、整流器に刺さったガラスを人海戦術で抜いて、復旧作業を行っていった。動作が安定している現在のシリコン整流器などと違い、何かとトラブルが多い当時の水銀整流器は修理・復旧の上で相当に骨が折れたであろう。

あの日から、80年がたった(筆者撮影)

 電気課員が籠りきりで普及作業を行ったこともあり、8月16日には送電が復旧、翌17日には電車の試運転が始まった。被爆からたった10日ほどで変電所を復旧できたことは、市内線の本格復旧に向けた大きな弾みとなり、小網町~土橋が8月18日、そこから十日市町、左官町(現:本川町)までと小刻みに復旧し、9月7日には爆心地の前を越え、己斐~八丁堀間が復旧を果たした。

 電線まわりは、被爆当時に関門海峡で電線工事をしていたという電気工事のプロ集団「満長組」(現:サンテック)が、すぐ市内架線工事にかかった。

 同社は空襲に備えて電線の碍子(絶縁用の器具)・電気工事用具のストックを持っており、「降りる暇もなく電柱の上で飯を食う」ほどの急ピッチで、全員死亡してしまった広島電鉄の架線係にかわって、工事を担ったという。満長組もまた、当時の社長が「わしらの手で広島を復興させよう!」と思いを述べていたそうだ。